幕間狂言――エコンにおける司教聖別

「護教の盾」さんのように、こんにち聖ピオ十世会について少しでも肯定的なことを語るのは、大変勇気がいることである。敬服する。
ところで私は現在まで、聖ピオ十世会についてとくに態度を表明したことがない。擁護したこともない。さしあたり私は事実を知りたいだけである。彼らの主張に一切耳を貸さずに(事実の定かでない噂をたよりに)峻拒するのはいかがなものかと思う。

ヨハネ・パウロ2世による使徒書簡「エクレジア・デイ(ED)」(1988年)によれば、ルフェーブル大司教と彼に司教聖別された四人は、教会法1382条(教皇許可なしの司教聖別)により自動破門を受けたとされる(ED 3)。これに対して会は、同じ教会法1323条ないし1324条によって、自動破門が免除もしくは軽減されると主張している。1323条ないし1324条は、要は情状酌量の余地について定めている。たとえば何らかの「必要性」があった場合で、これは客観的にそういう事実がなかったとしても、主観的にそう思っているというだけで成立する。ルフェーブル大司教は、自らが高齢でもあり、このままでは聖伝ミサを捧げる司祭(司祭は司教によってのみ叙階される)が絶滅してしまうという「必要性(緊急性)」があったのだと表明している。
しかし、そもそもかような「司教聖別」は、教会法が想定しているような意味での「必要性」であるといえるのかどうか疑問である。
聖座はラッチンガー枢機卿を通してルフェーブル大司教と交渉し、一端両者によるプロトコル(1988年5月5日)が成立している(ED6)。また、人数と時期について違いがあるが、聖座は聖ピオ十世会の司祭の司教聖別について大筋で承認していた。それゆえ、交渉の余地はまだあったかも知れない。それにもかかわず、さらに破門の警告があった上で、ルフェーブル大司教は聖座の意向に沿わない形で司教聖別を行ってしまった(1988年6月30日)(ED1)。
法の適用は厳密にすべきであるし、破門というような重罰の場合はできるだけ被告に対して有利に考えるべきであろう。しかし、一般的に言って、教会法の解釈(この場合、語義の解釈という意味ではなく、どのように適用するかという意味でのそれ)に関しては、聖座に優位性があると思う。
ただし、聖座の判断が絶対に正しいと言うことはできない(破門という判断は不可謬性の対象ではなく、間違いである可能性がある)から、聖ピオ十世会がこの件について異議申し立てをするのは不当とは言えない。また、教会の会に対する対応は、他と比較して必ずしもフェアとはいえないところがあるように見える。

Wikipedia(English)Econe Consecrations