エキュメニズム批判を病にたとえるひと

杉本氏の発言は青字で、聖ピオ十世会関連はオレンジで引用する)

杉本氏は「随想 吉祥寺の森から」で以下のように書いている。
エキュメニズムを病に例える人たち」
http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/50896553.html

かたくなに古代教会以来の因習にとらわれ続け、開かれた視野、謙った視座を持つことが出来ない頑迷固陋な自称、修道会に「聖ピオ10世会」があることはこれまでにも何度か述べてきたが、彼らは教会一致運動、キリスト教一致運動、エキュメニズムを「霊的エイズ」と呼ぶ。エキュメニカルな試みの手法や方法論、あり方に問題を感じ、その改善、工夫を唱えるのであればまだしも、その試み自体を病に例えて峻拒する姿勢は、ほとんどそちらの方が重症な頭の病気である
 
 エキュメニズムを病に例える人たち。それこそ思い上がりと信仰的認知症患者というにふさわしい

さて、件の記事で(公式のスポークスマンでもなければ会の代表でもない)聖ピオ十世会の一神父小野田氏はどう書いているか見てみよう。
「霊的なエイズと日本各地でのエキュメニカル礼拝」
http://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/54a0ebc65cf5840a6c902f5dc4c77ab8

カトリック教会は今現在、『第2バチカン公会議』というエイズに犯されているように思えてならないからだ。何故なら、健康な生物体はどれでも外敵から自分を守る機能をもっている、自分の生命を健康を脅かすウイルスを攻撃し排出する、しかし、エイズにかかるとどれが自分の体を犯すウイルスか、どれが自分の体のためになる生命体か、の区別が付かなくなり、すべての抵抗力を失い、少しのことで死に至ってしまうからだ。

 少なくとも悪それ自体、誤謬それ自体は、教会の敵である。それをキリストの神秘体から排斥しなければならない。そしてそれが教皇の愛の務めである。しかし、教皇様が「だれも教会の敵ではない」(エクレジアム スアム 90ページ)と言ったその瞬間、教会が誰が自分の敵で誰が見方かが区別が付かなくなったようだ。

両者を比べると次のことがわかる。

杉本氏:批判対象者を「重症な頭の病気」「信仰的認知症患者」としている。明らかな人格攻撃である。
小野田氏:批判しているのは教会内の「エキュメニズム」という現象に対してであり、人格攻撃ではない。

もちろん、小野田神父が別の場所で何らかの人格攻撃をしている可能性はある。しかし、件の記事ではそうしたことは確認できない。私の目から見れば、責められるべき態度は前者(人格攻撃)であって、後者(状況批判)ではない。

また、杉本氏は聖ピオ十世会をして「エキュメニカルな試みの手法や方法論、あり方に問題を感じ、その改善、工夫を唱えるのであればまだしも、その試み自体を病に例えて峻拒する姿勢」だというが、少なくとも彼らは「エキュメニズム」問題について(だけではないが)の詳細な研究をしている。たとえば、教皇庁枢機卿たちに向けて「エキュメニズムから静かな背教へ-- 教皇在位の25年 --」という文書を発表している(第一部/第二部/第三部/結論)。読んでみると、この論文においてヨハネ・パウロ2世の教皇文書から多く引用されているのがわかる。Tertulio Millennio「紀元2000年の到来」、Ut unum sintキリスト者の一致」、Redemptor Hominis「人間の贖い主」、Ecclesia in Europa「ヨーロッパの教会」などで、この他にも多くの講話より引いている。
杉本氏は「キリスト教一致祈祷週間」において、聖ピオ十世会は「ヨハネ23世やヨハネパウロ2世を徹底して嫌い、否定している」と言っている。これが、彼らがヨハネ・パウロ2世の言動について比較して多く批判を成している、という意味なら正しい。しかし、彼らがヨハネ・パウロ2世の言説をまったく省みない、という意味ならまったく正しくない。彼らは、ヨハネ・パウロ2世を安易に賛美している人よりもはるかに、その教皇の文書を非常によく読んでいる。第二バチカン公会議公文書についても同様のことが言えよう。

ところで「エキュメニズム」を病にたとえることがけしからん、とは実際には何を意味するのだろうか。問題は
エキュメニズムを「批判すること」
エキュメニズムを「病にたとえること」
のどちらだろう。どちらにしても、杉本氏はアンチ・エキュメニズムを「批判」しており(①)、エキュメニズムを批判する人(言説ではなく人物そのもの)を「病にたとえ」ている(②)。私が思うに、特別な事情でもない限り、自分に許すことは他人にも許すべきである。この点で、この記事での杉本氏の聖ピオ十世会(実際には所属している一神父)への批判には正当性がない。

また、杉本氏は「キリスト教一致祈祷週間」のコメント欄において、以下のようなやりとりをしている。
http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/50891144.html

14. Posted by しゃるろとっか 2007年02月03日 23:46
これ以降は私個人の貴方様への意見です。
金田さんには使っておられないと記憶いたしますが、反対意見を述べた方に「幼稚で---」との記述は、公衆の場で意見を述べるものの姿勢としては如何なものかと存じます。
貴方様の意見の中には、同意かつ関心する部分も感じた者としては、この「幼稚で---」の表現は貴方様の文章を読むものにとってマイナスになってはいないでしょうか。
(・・・)

17. Posted by Sugimoto 2007年02月04日 00:30
 お言葉ですが、私は何も考えることなく、だれかれと区別することなく、反対意見をみな「幼稚な」と形容、評価することはありません。実際に幼稚な論旨のものにのみ、そう申し上げております。
(・・・)

投稿者の「幼稚」という表現はいかがなものかという意見に対して、「実際に幼稚な論旨のものにのみ、そう申し上げております」と答えている。すなわち、「幼稚な論旨」と杉本氏が思うものに対しては、実際に「幼稚」と言ってもかまわないという論理である。私はこの杉本氏の論理そのものは間違いだとは思わない。しかし、そうであるならば、「エキュメニズムを病にたとえること」もまた、小野田神父が実際に「エキュメニズム」が(ある種の)「病」であると思ったとすれば、別にそのように表現をしてもかまわないことになる。あるいは杉本氏は、「いや、私は幼稚な論旨だと主観的に思ったのではなく、客観的にそうなのだ」と言い張るかも知れない。しかし、それならば、
「>>実際に幼稚な論旨のものにのみ
とございますが、具体的にどのような場合、相手の方を「幼稚--」云々と認定(語弊があるかもしれませんが)とされるのでしょうか」(comment21)
という問いにだんまりを決め込むのではなく、きちんと答える義務がある。

さらに、杉本氏はベネディクト16世プラダの赤い靴を履いていたことについて、ねちねちと悪口を積み重ねておきながら、「どこがいかんのか」という疑問について、結局は開き直ってしまっている。
http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/50891144.html

22. Posted by Sugimoto 2007年02月04日 01:41
ここで膨大な時間と手間をかけて、あえて貴殿に「私のブランド論」を申し述べるつもりはありません。好きであるならばそれはそれでよろしいのではないでしょうか

 私の、ヨハネ23世やヨハネ・パウロ2世への思いは、このコラムで山ほど書いてまいりました。そちらをご参照下さい。「キリスト教について」のところに見出せるでしょう。
 
 ベネディクト16世責任編纂のカテキズムも含め、著書は拝読しております。カテキズムを含め、その他も内容、文体ともに決して出来の良い本だとは思いませんが。

あまりに(かく表現することを許したまえ!)「幼稚」な応答なので、さっそく、投稿者に反論されている。

23. Posted by しゃるろとっか 2007年02月04日 05:47
>>好きであるならばそれはそれでよろしいのではないでしょうか
私はブランド物が好きだと書いた覚えはないのですが、これはどなたに向けて書いた文章でしょうか。
あえて、現教皇がブランドが好きだと解釈させていただければ、それはそれでよいのではありませんか?ということになり、貴方様がプログで書いている内容と矛盾するように感じるのですが。
失礼ですが、あまりにもブランドを意識しすぎているように感じます。(逆説的に考えればですが)
ヨハネ23世とヨハネ・パウロ2世に関する書き込みは拝読いたしましたが、抽象的でどこをどう尊敬されるのかが浮かびあがって来ません

あえて私の感想も加えると、杉本氏の「エキュメニズム」についての書き込みを拝読したが、抽象的でどこをどう評価しているのかがさっぱり浮かびあがってこない、ということになろうか。