「教会の外に救いなし」――杉本氏の誤謬をただす

杉本氏の発言は青字教会の公式文書は緑字聖ピオ十世会関係はオレンジで引用する)

すでに何度も何度も繰り返し書いたが、いちおう復習の意味もかねて。

杉本氏は「随想 吉祥寺の森から」で以下のように書いている。
http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/50700370.html

Extra ecclesia nullus salus

 という言葉があった。extra とは、〜の外 という意味、 ecclesia は「人々の集まり=教会」という意味、 nullus は否定の意味を持つ "not","no" の意味、salus は「救い」、「救済」という意味。全てを繋げると、およそ

 no salvation outside the church.
there is no salvation outside the church.

 といった意味になる。the church とはカトリック教会のこと。つまり、自分たちカトリック教会だけが唯一の普遍的、正統の系譜を継いだキリストの救いに繋がる教会だ、という意味であった。実際、異教徒は言うに及ばず、諸宗派であってさえも非常に強い批判にさらされ、退けられていた。

 今のカトリックは少なくも公には全くそう考えていない。プロテスタント東方教会らのことは、「距離をとった兄弟たち」と考え、向かっている方向は全く同じだと認識するに至っている。また、異教徒たちを全否定することはない。「神の摂理」によって動く、普遍的、理性的な高い価値を持つ人間の輝きがそれらの中にもあり、彼らの救いがどうなるかは神のみぞ知る、と認識している。キリスト教徒以外は全て滅びる、救われない、という暴言は影を潜めた。

いろいろ書いているが、重要なのは最後の一文だけ。杉本氏によれば「キリスト教徒以外は全て滅びる、救われない」というのは暴言だそうな。「影を潜めた」という以上、以前(つまり第二バチカン公会議以前)はよく言われたらしい。

いままで当ブログ記事を読んできた方はすぐさまおわかりかと思うが、杉本氏のこの認識は誤謬である。第二バチカン公会議以前においても「教会の外に救いなし」は「キリスト教徒以外は全て滅びる、救われない」という意味ではなかった
この件も繰り返し書いているが、たとえば以下の記述を見よ。
「Extra Ecclesiam nulla salus 教会の外に救いなし、再び

時代下って十九世紀に入り、近代の宗教無差別主義に抗する形で教皇ピオ九世は次のように宣している(回勅「シングラーリ・クワダム」)。

使徒より続くローマカトリック教会の外において救いはない、と固く信じられるべきである。それは唯一の救いの箱舟であり、入らないものは滅びる」(FCD,p312)

これは「教会の外に救いなし」のもっとも極端なヴァージョンである。ところが一転して、ピオ九世は以下のように続けているのだ。

にもかかわらず、等しく確かなことがある。やむをえず真の宗教に対する無知に陥っている者を、そのことで主は罪あるものとはしない」(ibid,p312)

Ottは「後半の命題は事実として教会に属していない者の救いの可能性を述べている」と註釈しており、これは第二バチカンの「教会憲章」にまで流れ込んでいる、カトリックのひとつの定式ではある。

その他、、誰が救われるのか「教会の外に救いなし」入門教会の外に救いなし 2教会の外に救いなし、などを読んでいただきたい。

一方、聖ピオ十世会創始者ルフェーブルが何と言っているか、ルフェーブル大司教による「教会の外に救いなし」、で取り上げたが、再度重要箇所を引いておく。
http://fsspxjapan.fc2web.com/op/op10.html
ルフェーブル大司教の発言、引用開始

教会は救いの唯一の方舟であり、私たちはそう宣言するのを恐れてはなりません。(・・・)
カトリック教会を通らずして世界に、そして人類の歴史に恩寵は分配されることはありません。
(・・・)
 これはプロテスタント信者、イスラム教徒、仏教徒あるいは精霊信仰者のだれも救われないと言う意味でしょうか?いいえ、こう考えるのは第二の誤謬になるでしょう。“教会の外に救いはない”という聖チプリアーノの定型句を不寛容に叫ぶ人々は、(・・・)
 教会の教義はまた暗黙 (implicit) の望みの洗礼をも認めています。これは天主の聖旨を行うことにあるのです。天主は全ての人をご存知です。従って、天主はプロテスタント信者、イスラム教徒、仏教徒そして全人類の中に良い意志の人が存在することを御存知です。彼らはそれを知ることなしに、しかし有効な方法により洗礼の恩寵を受けます。この方法で彼らは教会の一員になるのです

ルフェーブル大司教の発言、引用終了
ご覧の通り、聖ピオ十世会創始者ルフェーブルは「キリスト教徒以外は全て滅びる、救われない、という暴言」は述べていない。杉本氏が「彼らの救いがどうなるかは神のみぞ知る」と言う通りのことを言っているに過ぎない。

逆にバチカン側が「教会の外に救いなし」という教義について、第二バチカン公会議以降どう言っているかは、たとえば、「教会の外に救いなし」入門、で触れた。

第二バチカン公会議公文書Lumen Gentium(「教会憲章」)から。

聖なる教会会議は、まず第一にカトリック信者に関心をむける。聖書と伝承に基づいて、この旅する教会が救いのために必要であると教える。事実、キリストだけが仲介者であり救いの道であって、そのキリストは自分のからだ、すなわち教会の中で、われわれにとって現存するからである。しかもキリストは、信仰と洗礼の必要性を明白なことばによって教え、人々がちょうど戸口を通してのように、洗礼を通してその中にはいる教会の必要性をも同時に確認した。したがって、カトリック教会が神によってイエズス・キリストを通して必要不可欠なものとして建てられたことを知っていて、しかもなお教会にはいること、あるいは教会の中に終わりまでとどまることを拒否すれば、このような人々は救われないであろう

Lumen Gentium 14

現行のCCC(カトリック教会のカテキズム)は「教会の外に救いなし」という見出しの下、846においてLG14を引いている。

「教会の外に救いなし」

教会教父たちによってしばしば繰り返されたこの断定的主張をいかに理解すべきか。積極的な形で再定式化するならば、これは「すべての救いは頭であるキリストから、その身体である教会を通して生ずる」ということを意味する。

(以下、上記LG14「聖書と伝承」から終わりまで引用)

CCC 846

いかに解釈すべきかについては述べているが、「教会の外に救いなし」という教義が否定されてるわけでも、廃止されてるわけでもないことはすぐ理解できよう

これでも理解できないのであれば、もはや日本語が読めないひとなのだろうと思うしかない。