ルフェーブル大司教の「教皇不可謬権」

杉本(Norihisa)氏は当ブログのコメント欄で以下のように書いた。
http://d.hatena.ne.jp/kanedaitsuki/20070203/p2#c

聖ピオ10世会がこれらの教義を奉ずることがおかしいと申し上げたことは私は一度もありません。ただ、彼らの言うところの「教会」や「不可謬」の内容、範囲は、現在のバチカンのそれよりも遥かに原理主義的でひどく論評の対象にならない

杉本氏には「現在のバチカンのそれよりも遥かに原理主義的でひど」いという具体的な箇所を指摘していただければ幸いである。
「教会の外に救いなし」については既にルフェーブル大司教の言葉を引いて、それが第二バチカン公会議(教会憲章)とも現行のカテキズム(CCC)とも異ならないことを示したので、「教皇不可謬権」について。

ルフェーブル大司教は以下のように言っている。
http://fsspxjapan.fc2web.com/op/op21.html

私はこう言い続けてきました。「もしも誰かが教皇から離れたとしても、それは私ではない」と。問題の要点は次のことにあります。つまり、教会における教皇の権能は最高権力である、しかし絶対でもなければ無制限でもない、何故なら、教皇といえども天主の権能に従属しているからである、この天主の権能は聖伝、聖書、教会教導権により既に公布された諸定義によって表明されている、ということです。
事実、この権能はこれがキリストの代理者(つまり教皇)にこの地上で与えられた目的の内に制限されています。この目的は、ピオ9世が第一バチカン公会議の憲章『パストル・エテルヌス』において明確に定義しています。ですから、教皇の権能が制限されていると言ったとしても、自分の個人的な理論を述べているわけではありません。
盲目的従順はカトリックではありません。それがたとえ教皇であったとしても、長上の権威の命令が天主の御旨と反している場合(例えば聖伝が確実に天主の御旨が何であるか私たちに知らしめているような時)、御旨に反することを受け入れた時、天主よりも人間に従ったということの責任を誰も免れることはできません。教皇の口から出る全ての言葉がどれもこれも不可謬であると考えるのは間違っています
こう言ったとしても私は、パウロ六世が異端者であったとか、パウロ六世はその異端説を唱えたことにより教皇ではなくなった、と暗示したり断言したりする者らの一人ではありません。もしもそれが本当なら、パウロ六世によって任命された大部分の枢機卿たちは、本物の枢機卿ではないということになります。そうなれば有効に別の教皇を選ぶことができなくなってしまいます。そうなればヨハネ・パウロ一世もヨハネ・パウロ二世も正当に選ばれた教皇ではないことになってしまいます。これがいわゆる教皇聖座空位主義者(セデヴァカンティスト)と呼ばれる人々の立場です。



ルフェーブル大司教「教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者への手紙」
第21章「異端でもなく、離教でもなく」

「教会における教皇の権能は最高権力である、しかし絶対でもなければ無制限でもない」
「この権能はこれがキリストの代理者(つまり教皇)にこの地上で与えられた目的の内に制限されています」
「盲目的従順はカトリックではありません。それがたとえ教皇であったとしても」

これすべて聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の言葉である。果たしてこれが「教皇不可謬権」について原理主義的(?)といえるかどうかは読者のご判断におまかせする。
ちなみに言えば、彼は各教皇の言動に対して批判的言表をなしているが、それでもなお第二バチカン公会議に肯定的な教皇を「異端」としているわけでもない。それゆえ、「教皇空位論者」とも異なっている。