Mediatrix 仲介者マリア:センチメンタルな旅(6)

いわゆるマリア第五の教義(すべての恵みの仲介者、共同贖罪者)に関して、『聖母マリア 〈異端〉から〈女王〉へ』の中で竹下節子は以下のように記述している。

(第五の教義は)一九六二年の第二ヴァチカン公会議で、聖母マリアの位置づけが初めて特別の議題として上がったときは、退けられている。マリアはあくまでも教会の一員であって神と人との仲介者ではあり得ないからだ。(・・・)一九六四年一一月二一年に発表された全体の憲章『民の光』の中では、「教会の母、すなわち司牧者も信者も含むすべての神の民の母」だと宣言された。

聖母マリア 〈異端〉から〈女王〉へ』、p128

第二ヴァチカン公会議でも、マリアへの言及について司教たちの意見が分かれたとき、パウロ六世の力で、何とか「教会の母」という比喩的で無難な称号を承認させた

同上、p135

まず「教会の母」について。竹下はここでLumen Gentium8(「教会憲章 諸民族の光」第8章)を見よと指示しているので、『第二バチカン公会議公文書全集』で当該箇所(pp91-98)を通読してみたが、不思議なことに「教会の母、すなわち司牧者も信者も含むすべての神の民の母」というくだりは存在しない。私の見落としかも知れないが、たとえば『マリアとは誰だったのか』に収められている論文においてカトリック神学者カーリ・エリサベート・ビョレセンは竹下とはまったく逆のことを述べている。

パウルス六世は一九六四年十一月二十一日に、「ルーメン・ゲンティウム」の発展(ママ)に際してのスピーチの中で、マリアを教会の母(マーテル・エクレシアエ)と名づけた。この称号はポーランドの司教たちの会議に提示され、ヨハネス二十三世の望むところのものであった。しかしマリアに関する章を準備中の教育委員会はこの称号を拒否した。たしかにこの称号は、教父神学的なエクレシア・マーテル[母なる教会]という観念(引用者註・Lumen Gentiumにおいて推奨されている考え)から遠ざかる。というのは、マリアを教会に対して優位におくことになり、こうなるとパウロ六世は、「ルーメン・ゲンティウム」に表明されている原型としての教会に関する見解に、反することになる。

カトリック神学におけるマリア」『マリアとは誰だったのか』、p133

「教会の母」という称号は当時の教皇の念頭にあったものではあるが、どうも第二バチカン公会議では承認されていないようで、竹下に何か勘違いがあると思われる。とはいえ、第二バチカンを起点として、教皇文書に「教会の母」という称号がしばしば見られるようになったのは事実ではある(同上、p133参照)

問題なのはむしろ、第五の教義が退けられているという主張と「マリアはあくまでも教会の一員であって神と人との仲介者ではあり得なかった」という理由づけである。これが、第二ヴァチカンにおいてマリア第五の教義が荘厳宣言されなかった、という意味ならば正しい。もともと第二ヴァチカン公会議はあくまで「司牧的」なものであり、新たな教義決定は一切されていないのだから当たり前のことである。しかし、第五の教義に比する考えが表明されていなかった、という意味ならば、必ずしも正しくはない。
竹下には、たとえば一九五〇年のマリア被昇天の教義宣言に触れて「(マリアの)教義はだんだんとキリストの教えから離れてフォークロリックなものに近づいていく」(『聖母マリア』、p135)と書いているように、マリアにかかわる教義はまずもって民間信仰に基づくものと決めつける傾向がある。第五の教義についても二十世紀末になって突如熱病のように生じた民間運動であるかのように描いている(同上、pp116-117)。しかし、仲介者マリア、またそこから派生する共同贖罪者という思想は、他のマリアの教義同様、それなりに長い神学的発展の歴史を有している。第二ヴァチカン公会議においても、そうした考えは継承されているのだ。
第五の教義に関するマリアの役割についての、もっとも包括的な概念であるMediatrixについていえば、Lumen Gentiumにおいて明言されている。

マリアはその母性愛から、まだ旅を続けている自分の子の兄弟たち、危険や困難の中にある兄弟たちが、幸福な祖国に到達するまで、配慮をし続ける。このために聖なる処女は、教会において、弁護者、扶助者、救援者、仲介者(Mediatrix)の称号をもって呼び求められている

Lumen Gentium62

他の称号と並べられてであり、たしかに抑制的な言及ではあるが、この伝統的な名称が第二バチカンにおいても推奨されていることは疑う余地がない。

第五の教義について、あたかもそれがこれまで教会においてまったく教えられてこなかったかのような誤解がしばしばあるようだ(竹下の叙述の仕方もそういう誤解を与えやすい)。まるでゼロからこの教義が生まれたかのように。しかし実際には、公会議教皇単独による荘厳宣言こそされていないが、仲介者マリアの教義は通常教導権の範囲内で教えられているのだ。公式の教義テキストであるCatechism of the Catholic Churchでも、前述のLumen Gentiumのくだりをまるまる引用して、マリアの仲介者としての役割を説明している(968-970)
通常教導権による教えであっても、信者にとってそれを信じる義務が免除されているわけではない。これまでの教義史から見ても、第五の教義のように繰り返し一般に教えられてきた教義は、いずれ「荘厳宣言」されることはあっても、その逆、つまり撤回され排除されることはほとんどありえない。荘厳宣言されるかされないかは、時期の問題でしかない。第二バチカン公会議およびその後において、そうした不可謬権の行使がないのは、司牧的な配慮か、エキュメニカルな配慮によるものなのであって、第五の教義が信ずべき教えではない可能性があるからではない

(この項つづく)



Lumen Gentium
Catechism of the Catholic Church