太宰治は戦後「リベラリストはいまこそ天皇陛下万歳を叫ぶべきだ」と言った

皇位継承問題について「玄倉川の岸辺」というブログに書かれていることに非常に共鳴した。ぜひ紹介しておきたい。
http://blog.goo.ne.jp/kurokuragawa/c/4e39a21ecbbe1dd0a0b3f385aa8344f1

私は世間では少数派の男系維持論者である。
神話と伝説によれば2665年、歴史的にも千数百年のあいだ続いてきた男系による「万世一系」の物語をいま生きている人間の都合で断ち切ることを不遜だと思う。別に「男」系だから価値があるというのではなく、もし皇室の血統が女系であれば「女系を守れ」と主張しているだろう。太古より一筋に続く血統が皇室に尊厳を与え、尊厳ある皇室こそが日本の歴史を貫く芯である。

「神話と伝説によれば2665年、歴史的にも千数百年のあいだ続いてきた男系による「万世一系」の物語」
万世一系」は「神話」でもなければ「ファンタジー」でもなく、少なくともある時代以降は事実「万世一系」だったわけで、問題となるのはどこまで皇統をさかのぼることができるか、でしかありません。反対派が揚げ足取りのごとく「2665年」に噛み付くのは、実際にはほかに否定する根拠がないからなのです。

私はリベラルを自称しているが、こと皇室問題に限ればガチガチの保守派だ。「男女平等」だの「国民の理解」だのしゃらくさい限りであって、皇室は超然として古来の伝統を守り続けていただきたいと願っている。
とはいえ、現代の民主主義・大衆社会では私の願うような形での皇室の存続は難しそうだ。おそらく国民の9割がたは男系と女系の区別も知らず、「愛子さま天皇になればいいじゃない」と気軽に考えている。保守派が「正しい」皇室観を急速に広めるのは困難だろう。大衆は半径5メートルの日常性にどっぷりと漬かり、神武天皇以来の皇統とか天壌無窮の神勅といった浮世離れした概念にロマンを感じるのは私のような変わり者くらい。これも美智子さま御成婚以来の「皇室の世俗化・タレント化」の避けがたい帰結というべきか。私は天皇皇后両陛下のお人柄を敬愛するが、それとは別に「平民を皇室に入れる危険性」を説いた当時の保守派の意見にも一理あったと思わざるを得ない。
私にとっては2600年のあいだ男系により続いてきた「皇統」こそが崇敬の対象であって、現在生きておられる皇族の方々のお人柄や国民の人気といったものは極論すればどうでも良いことである。仮に天皇陛下や皇族のお人柄がすぐれず国民から人気がなかったとしても、皇統さえ未来の日本に引き継げればきっと大丈夫だという確信がある。しかし、国民のほとんどは皇統を意識せず現在の皇室のかたがたのことしか考えていないらしい。

神武天皇以来の皇統とか天壌無窮の神勅といった浮世離れした概念にロマンを感じるのは私のような変わり者くらい」
そんなことはありません。「ロマン」という言葉を使うのには躊躇しますが、私も神話にさかのぼることのできる皇統であるからこそ価値あるものだと思ってます。
「現在生きておられる皇族の方々のお人柄や国民の人気といったものは極論すればどうでも良いことである。仮に天皇陛下や皇族のお人柄がすぐれず国民から人気がなかったとしても、皇統さえ未来の日本に引き継げればきっと大丈夫だという確信がある」
というのにもはげしく同意します。連綿と受け継がれてきた皇位こそが至尊なのであって、天皇のパーソナルな部分はあくまで二次的なものです。時代時代の人気不人気で左右されるものであっては、国家の永続性を象徴することができませんから。
また、私も天皇以外は可能なかぎり「自由」であることが望ましい、と考えてきました。むしろ臣民の「自由」を保障するために必要なものが天皇制度(立憲君主制)なのだと。

悠久の伝統を考えるとき思い出すことがある。
延暦寺には最澄の開山以来いちども絶やされたことのない「不滅の法灯」が存在する。
実はこの法灯、信長の焼き討ちのさい一度消えてしまったのだが、山形の立石寺に分灯されていた法灯を分けることにより再び「最澄のともした灯」を復活させている。これこそが伝統を守る文化であり古人の知恵というものだ。
「現在の皇族に男子がいなくなったから、2600年の歴史を切り捨てて女系を容認する」という「皇室典範に関する有識者会議」の考えかたは、途絶えた法灯をそこらへんの火打石を使って付けるようなものだ。そんなことをすれば「開山以来受け継がれた法灯」という神秘性を失いほとんど無価値になる。皇統の灯りは旧皇族という分灯を種にして古代から未来に続く火をともし続けるべきである。

「不滅の法灯」の例は非常にうまい。皇族という「血のスペア」の存在意義を照らしてあますところなし。