天皇と私

コメント欄でも書いたが、一時期私は天皇ナショナリストであった。というのもファシズム信奉者だったからだ(笑
私はファシズムにとってもっとも邪魔なのは天皇の存在だと思っていたわけである。独裁者は政治権力を集中するのみならず、国民に対する精神的指導者でもなくてはならない。しかるに立憲君主政体では「権威」と「権力」は分離される。それゆえ、独裁者は生まれない。
では、丸山眞男いうところの「天皇ファシズム」とは何なのか、という疑問が生まれよう。私は戦前の一時期日本が全体主義体制であったことを否定しない。経済統制や政党解体などを見ても、擬似ファシズムであった、と言いうる。しかし、それは非常に中途半端だったものであり、大戦中ですら政権は3度変わった。開戦当時の首相東條はおどろおどろしい独裁者であるかのごとく描かれることがあるが、権力を集中していたわけではなく(陸軍出身ゆえ、とりわけ海軍には力がきかなかった)、サイパン陥落の責任をとって辞職している。あとを継いだ小磯内閣が戦争継続の意志決定をしたのである。つまり日本には独裁者は存在しなかった。
私が天皇支持派に転じたのは、全体主義に対する緩衝という役割において「立憲君主政体」の方が「共和政体」よりも政治システム的に優位にある、と判断したことが大きい。しかし、おそらくそうした積極的な理由によるよりも、あまりに反天皇制論者らの議論に説得力がなく、彼らの社会や歴史に対しての軽薄な考えに対しての反発の感情の方が、より大きな理由になっていると思う。つまり、私は天皇派というよりも「反」反天皇派なのだ。もう少し広げていうならば右翼というよりも、反「左翼」なわけだ。その意味で筋の通った左翼にはいまでも敬意も興味も持っている。
根が哲学屋なので、懐疑と批判精神を捨てられない。だから基本的に無「信仰」無「宗教」の立場だ。その上でなお天皇制や靖国神社を擁護するところが、私の私たるゆえんだとも思う。ほんとうはきちんと理論武装した保守主義者になりたいところなのだが、おそらくそうなると私は誰よりも原理主義的に振舞うであろう。自らのうちに「思想の自由」を残しておきたいので、なかなかイデオロジストになりきれないのである。