チェスと将棋

調子にのって書いてみよう。
Kasparovは『My Great Predecessors』Ⅰで、チェスの歴史は、個人におけるチェスプレイの発達の推移に似ていると言う。たとえば初心者は意識せずとも16世紀17世紀の、やたらチェックを繰り返したり、はやいうちからクイーンを戦線に繰り出し、駒の展開を考えないようなスタイルでプレイする。いわば「個体発生は系統発生を繰り返す」というわけ。
将棋で考えてみると、アマチュアが江戸時代のごとき将棋を指すことはまずなかろう。かえってプロの方が立石流四間飛車のようなアマチュア開発の戦法を取り込んだり、藤井システムのごとく初心者ばりの居玉猛攻作戦が出てきたりと、チェスとはむしろ逆の流れがある。
これもまた羽生善治が言うように、将棋の(真の意味での)定跡化は、ここ最近になってようやくはじまったばかりだということとつながるのだろう。将棋にはECOに匹敵する序盤大成のようなものはない。そういうものを創ろうという意志もなさそうだ。一時期『将棋世界』に連載していた序盤の詳細な変化の研究をあらわした羽生の仕事がそういう意志のひとつだったが、こういう作業はひとりで出きるものではなかろう。
いわば将棋をロジカルに研究対象とする動機が日本人にはほとんどない。研究をデータベース化しようという意欲もない。文化的差異といってしまえばおしまいだが、同じ完全情報ゲームでありながら、この落差には愕然とさせられる。
実際私が将棋よりチェス萌えなのは、こうした圧倒的な研究量の差があることにもある。膨大なチェス本を渉猟することは、知的欲求をよく満たしてくれるのだ。数学書や神学書を読む喜びと同じ喜びがそこにはある。
コンピューターの将棋プログラムの発達は、こうした情況を改善するかも知れない。しかし、そのためには将棋にかかわる人々の意思の変化が必要なのだと思う。