好きな句

想像の水母がどうしても溶ける 池田澄子

最短詩型である俳句において重要なのは「像を結ぶこと」であると私は確信している。像を結ぶことで読者の心にイメージを焼きつけ、その俳句の持つ深さ広さを味わうことを可能にすると思えるからだ。
一方、俳句をあくまで言語構築物ととり、意味のねじれや言葉遊びを重視し、あえて像を結ばない句をつくる方々もいて、摂津幸彦や坪内稔典などだが、池田澄子もこの系譜にあるといえる。
ただ揚句の場合は、どちらかというと、ぼやけたものをぼやけたものとして像化している。あえてピントをはずすことで、そのものの独特な質感を定着させんとする写真のように。ただし、その対象物は実在のものではなく、イメージである。イメージをイメージするの図なのだ。しかし、作意とは違うが、これを実際の水槽の中にたゆたう水母の「客観写生」句ととってみても、まったく違和感がない。なるほど「水母」の存在感には「想像の」という形容が不思議にしっくりくる。この場合「水母」の季語としての機能はほとんどなくなっているが。
言語至上主義と像化の意志という反対物はどこかで交わるのかも知れない、ということを予感させる句である。