相対主義批判とか

kanedaitsuki2005-04-29

たまたま長尾龍一『ケルゼン研究Ⅰ』をひもとくと、最初の方に以下のような文章が目に入り、これこそ私が言いたかったことだと膝を打った。
長尾はケルゼン式の不可知論的相対主義に基づく自由主義・民主主義的価値を信奉していた、としたうえで、最近になってそれを修正せざるをなくなったと告白する。なぜか。

理論的にいえば、認識上の価値と実践上の価値を峻別するケルゼンの理論を、自由主義・民主主義という実践上の価値と結びつけようとするところに原理上無理があるということであり、このように考えるに至った動機の一つは紀元前五世紀のギリシャ啓蒙思想が、一種の内在的論理に基づいてニヒリズムに陥ったように思われたからである。また価値相対主義によって寛容や民主主義を基礎づけようとする理論においても、価値相対主義という概念には「価値判断は相対的である」という認識命題と、「諸価値を相対的に扱うべし」という実践命題との二義性があり、両者は論理的には無関係であること、したがって認識上の価値相対主義は必ずしも寛容等を基礎づけないことに気付き、さらにケルゼン自身も民主主義は相対主義よりむしろ「自律」の理念に基礎をおくとしているが、合理主義も相対主義も結局この自律の理念を基礎づけることはできないと考えたからである。
長尾龍一『ケルゼン研究Ⅰ』信山社1999年、pp11-12)
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相対主義は実践的なレベルでは有効であり、理性の要求にも適っているが、それを認識論的レベルにまで拡張するのは、逆にそれ自体が絶対的イデオロギーと化してしまう。これが私の常日ごろから思い語っていることであるが、それが先鋭的で明晰な形で表現されている。『知の欺瞞』においても、「方法的」相対主義は科学的だが、認識論的それは非科学的であるとして、同様の峻別を行っていた。
不思議なことでもないが、『ドミヌス・イエズス』にもこの二分法は反響している。その文書は自己の信仰の絶対性を主張する一方、他方で他宗教他宗派への寛容を同時に説いている(ついでにいえば、これはまったく第2バチカン公会議の路線の延長上にある)。それは逆説でもなんでもなく、相対主義に関しては、態度としてのそれと、理論としてのそれには雲泥の差があるからなのだ。
相対主義者がえてして不寛容でジコチューなのは、この二つの峻別ができてないからではなかろうかと私は思う。