シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』から

私も横道に逸れてみたりして。

 何かあるものが現実的なものであると知ったとたんから、人はもはやそのものに執着していることができなくなる。
 執着をもつのは、現実性の感覚が十分でないということにほかならない。人がものの所有に執着するというのも、そのものを所有しなくなると、そのものが存在しなくなるかのように思いこんでいるからである。ひとつの町がほろんでなくなってしまうことと、その町の外へ追放されて二度と戻れなくなることとには、まったくもって非常な違いがあることを、多くの人たちは、心の底から感じていない。
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 人間の悲惨さは、時間によって薄められなかったならば、とても堪えられないものであろう。
 それが堪えられないものであるようにしておくために、それが薄められないようにしなければならない。
「かれらは、涙を流し、ともかくもそれで満足して……」(『イーリアス』)――このこともまた、どんなにひどい苦しみも堪えやすいものにする手段である。
 泣いてはならない、慰めを受けたりしないように。
シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵

私はヴェイユに対して、神秘主義的な側面よりも、現実を見つめる知の力を感じる。