裁く神

救われる者と救われない者がいる、というのはキリスト教思想の根本である。つまり神の裁きの側面。それにもかかわらず、ネット上で、神はすべてを許されるとして、「裁き」を否定する発言をしているクリスチャンを目にすることは少なくない。その中には、勢いづいて「旧約」=裁きの神、「新約」=愛の神と決めつけ、旧約を否定・軽視する者もいる。初期教会史をひもとけば、こうした考え方は特に現代に突然生じたものではなく、古くからあるタイプの「異端」思想であることはすぐわかるのにである。
そもそも、こういう方々は、たとえば新約聖書の次のような箇所をどう解釈するのであろうか。

人の子が栄光の中にすべての御使いたちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼いが羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう
(マタイ伝第25章31-33節)

その後、右に集められたひとは「永遠の生命に入る」ことになり、左に集められたひとは「永遠の刑罰を受け」ることになる。こう言っているのは、イエス・キリスト御自身である。
裁きの否定は、当然このような「永遠の刑罰」を否定するだろう。それゆえまた、「地獄」の存在も認めないことになる。キリストの教会が2千年にもわたり保持してきた重要な観念をである。
尊敬すべきキリスト教学者山田晶は、神が万人を許さない、という思想はケチくさいのではないか、という批判に対して、むしろ永遠の刑罰を与える「地獄」の思想があるからこそ、キリスト教思想は深いのだと応じている。

人間は、どんなにつまらない人間であっても、ある意味においては神に背くことができるような、それだけの力を与えられています。それを自由と呼んでいいか否かは問題ですが、それだけの力を与えられているのです。そうすると、地獄に堕ちることができるということは、ある意味で人間に与えられている本性の、他のすべての自然本性にまさる卓越性を意味することになります。それが、ただ人間だけが「神の似像(イマゴ・デイ)」に造られたということの意味であると思われます。そういうところに私は、キリスト教における人間の捉え方の最も深いところがあると思うのです。
(『アウグスティヌス講話』講談社学術文庫、p96)
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責めを負う存在であるからこそ、人間は他の自然物とは違いパーソナルな存在なのである。この深い洞察はキリスト教がもたらした人類すべてへの道徳的財産といえる。そしてそれは、神の裁きの側面と明確に関連しているのである。罪を犯しうるからこそ、救いの価値はいや増す。裁きの否定は、むしろ神の愛を矮小化してしまうのだ。
地獄についてさまざまな解釈がありえ、具体的な実相はわからないとしても、その実在の否定は、実はキリスト教信仰の全否定になってしまうのである。
一部のクリスチャンがこのことに無理解なのは、単なる無知なのか、自らの信仰を省みることが少ないからなのか、それは不信仰の私にはわからないが、非常に奇怪な光景ではある。