柴田淳『未成年』★★★★★

柴田淳はここ最近気に入って聴きこんでいる。3枚のアルバムもすべて購入。透明感のあるメロディに奥行きのある声を乗せ、いやな言い方ではあるが「癒し系」ソングとして徐々に人気が高まってきているようだ。最近、この曲が一部のファンに動揺をきたしていることを知った。あまりに赤裸々な心情告白、ぜんぶ周りが悪いといった尾崎豊のごとき歌詞内容、それが今までの路線の変更と感じられたということらしい。
びっくりしてさっそく歌詞を検討してみた。

ぼくらはただ 気付いて欲しかっただけで
誰も何も 壊すつもりはなかった


耳を塞いでいる 固く目を閉じている
ぼくらを受け止められず 逃げ出した弱虫よ

出だしだが、たしかに、自分の弱さを他人のせいにしている、と見える。注目すべきは、ここで「弱虫」と断定されている当事者は特に名指しされていないことだ。文脈や常識から判断すれば「大人たち」もしくは「親たち」となろう。
特に際立っているのは次の箇所だろう。

抱きしめてよ 痛いほど
鼓動を感じるくらいに強く
耳を澄まし 向き合って
ぼくらの魂の悲鳴 聞いて

こっち向いてくれないから
心を歪めるしかなかったんだ

少年犯罪に対しての、耳ざわりのいい心理学的なコメントを髣髴とさせる。なるほど、こういう考え方に反発を覚えるのはわかる。わかる、というより、私自身そう思う。
しかし、ポピュラー音楽のようなジャンルにおいて、単に歌詞の内容を社会的批評によってのみ評価するのはおかしい。そこで表明されている思想がまずくても、その心情に共鳴することはありうる。たとえば、尾崎豊があれだけ若者に受けたのは、若者の心にリアルに迫っていたからには違いない。それが事実としてただしいかどうかや、社会的に批判されるべきかどうかとは別に、そのことは音楽として優れていた、とはいえるはずだ。柴田淳についても、その思想そのものは留保しておく必要がある。
さらにいえば、柴田の歌詞は尾崎に比べてはるかに抽象的である。なるほど、歌詞からだけでも、幼少時の両親との葛藤がうかがえるが、その関係性に肉薄しているとはいえず、むしろ、すべてが自分の内面で進行しているかのような表現になっている。時代を表現しているというなら、内容というよりも、むしろこの表現形式がそうだと言える。
そうだとすると「赤裸々」という評価は当てはまらない。ましてや尾崎と比較するのは見当はずれである。
柴田淳は、ストレートなメッセージ性よりも言語の表現性にこだわる「詩人」であり、それによって音楽性を犠牲にするようなこともない。そのことはいくら強調しても強調しすぎることはなく、私が高く評価する所以である。ただし、本人やファンの認識と、実際の彼女の作品にズレが生じることは常にありうる。柴田自身の発言も、あまり鵜呑みにしてはならないと私は思う。
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