苦しみの神秘主義

 引き続き"Father Seraphim Rose: His Life and Works"より。


「ユージンは記している。「世界の苦しみ(suffering)には意味がある。しかしそれは決して言葉の上で経験されうるものではない。その意味は生きられねばならない。語るものではない」(p.102)
「以前、ユージンは人々の苦しみを許す神を否定した。今彼は、世界の苦しみを許す一方、世界の創造をはるかに超える苦しみを自ら引き受けた神を強く信じている」(p.103)
「私たちは存在が苦しみであることを知っている。そして、神が私たちを愛し、その愛ゆえに偉大な聖人さえもはるかに凌ぐほどに苦しんだ。私たちはそのことを知っているのに、あえて疑い、その意味についてささいな疑問を繰り返す。なんと愚かなこと! 受け入れよ、もっと苦しめ、そして神に祈れ。心を込めて祈り、涙せよ。理由は神が知る。神はすべてを知っている」(pp.103-104)


 神が世界を創造したのだとすれば、なぜ神は世界の苦しみ(悪)を放置するのか、という問いは古くからある問題である。この問いによって、人は無神論に導かれもする。
 面白いことに、この問いは人を神秘主義の方向にも導く。神秘家にとっては、結局の所、苦しみは、神の秘儀に参入するための扉である。「もし苦しみがなければ、人々はこの世を天国だと誤解するだろう」(ヴェーユ)。
 それは唯一の扉ではない。しかし、ある意味で、最も容易な道だ(「私のくびきは負いやすい」)。苦を引き受けるには、苦しみにあえて自らを投じる方法もあるし、また別の方法として、他者の苦しみを自らのものとするというやり方もあるだろう。イエス・キリストの受難は、両者を結びつけ、高く統合したものと言えよう。