暴かれた『ダ・ヴィンチ・コード』の嘘――Carl E. Olson, Sandra Miesel"The Da Vinci Hoax: Exposing the Errors in The Da Vinci Code" ★★★★

kanedaitsuki2009-07-20

 『ダ・ヴィンチ・コード』の根本前提は、ローマ・カトリック教会は、自らのイデオロギーにより、歴史を改変し、事実を隠蔽しているということだ。しかし、実はこの非難は、むしろ『ダ・ヴィンチ・コード』それ自体に当てはまる。作者ブラウンは、自らのイデオロギー(反カトリシズム、ネオ・グノーシズム、ラディカル・フェミニズム等々)によって、多くの文献により確定した事実を捻じ曲げ、自らに都合のよい歴史を捏造している。
 この本で自らカトリックである著者らが問題にしているのは、「カトリックの信仰」ではなく、あくまで、「事実」としての「歴史」である。それゆえ、カトリックのイデオローグとしてではなく、客観的な学問的見地から、『ダ・ヴィンチ・コード』の各テーゼを吟味し、批判している。
 一例を挙げると、『ダ・ヴィンチ・コード』は、イエス・キリストが初めて「神」とされたのは、皇帝コンスタンティヌスによって招集され開催された二ケア公会議(325年)においてであって、それまでは誰もイエス・キリストを「神」と考えていなかったとする。もちろん、これはまったくの間違いだ。問題なのは、イエス・キリストは実際神か否かということではない(それは信仰の問題である)。問題なのは、「イエス・キリストはまさしく神である」と信者に信じられていたか否かである。答えは「イエス」。キリスト教の始まり以来、イエス・キリストの神性は、信仰の前提であった。これは新約聖書をはじめ、多くの初期教父の証言によって確定している「事実」にほかならない。二ケア公会議で問題になったのは、イエス・キリストは「神」か、あるいはただの「人」かですらない。公会議で異端と宣告されたアリウスですら、イエス・キリストの「神性」を疑っていない。彼が主張したのは、単に「神の子」イエス・キリストの神性は、父なる神と同等ではなく、「より劣る」仕方でそうなのだということだ。二ケア公会議は、このアリウスの主張に対して、神の子の神性と父なる神の神性は「同一本質」(ホモウーシオス)であると定義し、イエス・キリストの神性を、父なる神と同等のものと宣言したわけである。
 また、『ダ・ヴィンチ・コード』は、カトリック教会によって排除されたグノースティックな福音書では、イエス・キリストは不死ならざる預言者(人間)に過ぎぬものとされていると言うが、もちろんこれはグノーシズムについての単なる無知から来る誤謬である。グノーシズムはその二元論的世界観から、物質的世界や身体に対する蔑視、歴史的事実に対する軽視を特徴とする。それゆえ、グノースティックな福音書では、むしろ人間として生活したイエス・キリストの姿は無視され、霊的なイエスのみがクローズ・アップされる。イエス・キリストを神に祭り上げるために創作されたとされる四福音書こそ、怒りや悲しみをあらわにするもっとも人間的なイエスが描かれている。
 果たして事実を見ず、歴史を創作しているのは、ローマ・カトリックなのか、『ダ・ヴィンチ・コード』なのか。少なくとも、この書を読むまでは、判断を保留すべきだろう。


The Da Vinci Hoax: Exposing the Errors in The Da Vinci Code