Anti-Nietzsche Introduction

 昔からニーチェが嫌いだった。厳密に言えば「ニーチェが好き」とか言ってるやつらが嫌いだった。(笑
 それは冗談としても、ニーチェキリスト教(西洋形而上学)批判、腑に落ちたためしがない。もちろんこれは、私がキリスト教(特にカトリック)シンパだったから、ということはあるにはある。しかし、ごく客観的に言っても、ニーチェ哲学史理解はあさっての方に行っているのではないかという疑惑がある(ニーチェ好きの永井均もどこかで、ニーチェのカント理解はデタラメと言っていた記憶がある)。メタフィジックに対する救いようのない鈍感さを感じる。
 さて、ニーチェの根本思想に「永劫回帰」というものがある。その内容は、私の理解するところではこんな感じだろう。キリスト教プラトンにはじまる西洋形而上学)は、この世の外に生の価値基準を設ける。そのことで、生を貶め、究極的には否定している。生を肯定するためには、生の価値を、「永遠に何度も同じ生を生きても良しと思えるかどうか」に置く必要がある。たとえば、同じ一時間でも、内容のないつまらない時間もあれば、濃密な充実した時間もある。外延量は同じでも内包量が違うわけだ。人生を左右するような劇的な瞬間というものがある。たとえば恋愛経験もそうだ。そうした内的な濃い時間(同じことを繰り返してもぜんぜんOK!)を増やすように生きることで、この世の外部に価値基準を置くことなく、内在的な価値基準によって生を肯定することができる。
 この理解がただしいとして、これって宗教、とくに神秘主義の説くことと、実はそんなに違いはないんじゃないの? 井筒師が『イスラーム哲学の原像』で述べる通り、神秘主義の特色は、現実を多層的に見ることだ。私たちは通常、現実の一部しか見ていない。それは、二次元生物が三次元を見ているようなものだ。平面の世界において、円の中にいる存在は、円の外に出られない(と思い込んでいる)。三次元から見れば、円周をまたいで乗り越えられる。神の眼(高次の視点)を持つことは、それと似ている。そのことによって、この世の生を、単調にではなく、深く生きることができる。それは、瞬間瞬間の内包量を増やすことと、イコールなのでは?
 モノテイズムの凄みは、そうした超越性と内在性のメビウス的一致にあるのではないかと私は思う。