言挙げせぬもほどほどに――小野田博一『13歳からの論理ノート』★★★★

kanedaitsuki2008-08-25

国際通信チェス連盟インターナショナル・マスターでもある小野田博一は、論理力を鍛える数々の本も出版している。この本もそういう中の一冊なので、他の本を既にお持ちの方は、あえて購入する必要はない。しかし、タイトルが示唆するごとく、中学生あたりが最初の一冊として持つには適当であろう。
注意せねばならないが、これはいわゆる「論理学」の本ではない。あくまで自然言語の枠内で、「論理的に」考え、「論理的に」書いたり「論理的に」話したりするための基礎的なスキルを得るための本である。したがってここで言う「論理的に」は、自分だけでなく他人にとっても「なるほどな」と言える程の説得力を持って、というくらいの意味である。
しかし、この程度のことすら、一般には受け入れられていない。著者の次のような指摘は、非常に鋭い。

 日本人は「説明が不十分だったり不正確だったりする文章」から書き手の意図を汲み取る訓練を国語の時間に受けているので、「表現が不正確な文章を読んでも、不正確とは思わないし、自分で文章を書くときも、不正確な表現の文章を書きながら正確な表現の文章を書いたつもりでいる」――そのような人が多いのです。


『13歳からの論理ノート』、p110

私が思うに、わかりやすい文章を書くためには「善意の読者」を想定してはいけない。「善意の読者」とは、自分の説明の足りないところを補って理解してくれる読者、の意である。もちろん、一から十まですべて説明していては文章を書くどころではなくなってしまうが、あまりにギャップのある文章だと、自分では分かった気でも、他人にはちんぷんかんぷんになってしまう。
次のような説明に感情的に反発する人は多くいるだろう。

 論文(考えを説明する文)を文学的に書いてはいけません。これが大原則です。


 意味を正確に伝える文章を書けなくて、それを補おうとしてムードを伝えることにやたら努力を払う人がいます。中には、正確に意味を伝えるのでは文章が味気なくなるので、故意にムード中心とする人すらいます。とくに、自分に酔った文章を書きたがる人にその傾向が強いです。その人たちは、そう書くことが文学的才能の表現と誤解しているのです。文学的才能とは、作品の世界の中に読者をのめり込ませる・引きずり込む文章を書ける能力です。自分に酔った不正確な文章を書ける能力や意味不明の文章を書ける能力のことではありません。


同上、p118

これを読んで、文学は意味不明でもいいのだ、とか、文学には論理はいらない、とか、そういう脊髄反射的反応をするような方々に、この本を読めとは言わない。少しでもなるほどと思う人ならば、中学生向けではあるが、この本は読んで益するところがあるだろう。

13歳からの論理ノート