ルフェーブルの離教運動からの脱出記――すべての伝統はローマに通ず(1)

Peter Vereの自伝的エッセイ"My Journey out of the Lefebvre Schism --All Tradition Leads to Rome"を紹介する。Vereは一時期聖ピオ十世会のシンパであったがのちに離脱した。その経験と教会法の研究から、聖ピオ十世会の主要な主張を反駁している。当ブログではすでに教会法1323条および1324条に関する論考を取り上げた。ルフェーブル運動の全般的な教会法的問題点を論じた"A Canonical History of the Lefebvrite Schism"も、この問題に関心のある方には必読であろう。彼の文章には、聖ピオ十世会に反発するひとに時折みられるような、感情的・侮蔑的な態度がなく、つとめて冷静・客観的な筆致であり、公正な判断をするにはもってこいの情報が得られるかと思う。

「もしあなたが教会の教導権に忠実なカトリックならば、聖ピオ十世会として知られる、1988年に離教したマルセル・ルフェーブル大司教の支持者に出くわしたことがあるだろう。彼らは聖母への崇敬に満ち、今日の西洋全体を悩ます道徳問題についてきわめて保守的であり、旧ラテン典礼において聖体を非常に恭しく扱う。つまり、ルフェーブル大司教の離教運動の信奉者は敬虔なカトリックのように見える、表面上は」



聖ピオ十世会に参加した者の多くは、北アメリカのカトリック教会の中にこんにち見られる教義と典礼の濫用に憤慨してのことなので、そうした人々に共感するのは容易い。実際、そのような共感とトリエントミサの美しさゆえに、私自身八年前聖ピオ十世会の教会に度々足を運ぶようになったのだ。ほとんどの聖ピオ十世会信奉者と同様、その当時、私のローマからの離反は単に一時的なものでしかないと思っていた。
しかしながら、現行の教会法が説明しているように、「至高の教皇への不従順と彼に従属する教会の成員との交わりからの離脱」(教会法751条)がすべての離教の根にある。カトリック教会のカテキズムが示すように、そうした教会との交わりからの断絶は「キリストの体の統一を傷つける」(CCC 817)。この理由ゆえに、私のローマとの十全な交わりへの帰還の根底には、キリストによって建てられた制度としての教会の統一性についての多くの問題が横たわっている。
以下論じるのは、聖ピオ十世会の離教運動に携わっている間、私の良心を悩ませたカトリックの伝統に関する問題に関する、実践的な省察である。これらの問題に答えようとして最後には、聖伝はローマとの交わりにおいてのみ十分に生きうるという結論に達した。伝統主義運動にはまった八年間、ローマと和解したあとの五年間の個人的体験が私の結論に貢献している。その上、最近の二年間、私は教会法の免許を得、「ルフェーブル大司教の離教運動の教会法的歴史」という専攻論文の出版にこぎつけた。以下がローマとの和解に導いた研究のちょっとした説明である。


ルフェーブル大司教とは何者か?


マルセル・ルフェーブル大司教聖霊伝道団として叙階を受け、のちにアフリカのダカールの最初の大司教となった。その間、アフリカに多くの伝道司教区を作り、教皇ピオ12世の下で、アフリカのフランス語圏への法王使節に指名された。
第二バチカン公会議直後ローマで引退する前、彼は聖霊伝道団総団長としても働いた。
ところが、当時のフランスの新学校でいくつかの問題が起きはじめ、養成プログラムに生じた混乱によって多くの若い神学生が夢から覚めた。彼らは1970年頃ルフェーブル大司教に接近し、ローマでの隠遁から無理やり連れ出した。多くのフランスの神学生が被った規律の欠如という災害、新学校の養成プログラムにある教義上の欠点を見てとって、ルフェーブルは1969年にある研究機関を設立した。これはすぐに神学校と聖ピオ十世会へと成長した。
これらの機関はスイスのエコン付近において、試行的基礎の上での教会法的承認を受けた。しかしながら、ルフェーブルはトリエントミサの使用を続けたため、ついにはヴァチカンの関心事となった。1974年まで論争は白熱し、ルフェーブルは伝統主義者の集まりにおいて、第二バチカン公会議の有効性と正当性を疑問に付す有名な宣言をなすに至った。
この宣言が問題となって、1975年教皇パウロ6世により聖ピオ十世会とその神学校の教会法上の活動停止処分を受けた。しかし、ルフェーブルはこの処分を無視し、彼の神学生たちを聖職者に違法に叙階しはじめ、同年そのために聖職の停止処分を受けた。以来13年間、ルフェーブルは非合法に活動しつづけ、聖ピオ十世会を拡大したが、その一方ローマとの交渉は継続していた。
ローマと聖ピオ十世会の関係は1988年5月5日までは、むしろ膠着状態と言ってよかった。この日、聖ピオ十世会とローマとの間で、会が教会と和解するための同意に達した。同意のプロトコルがジョゼフ・ラッチンガーとルフェーブル大司教の両者によって署名された。にもかかわらず、幾日もたたないうちに、ルフェーブル大司教はその署名を撤回し、ローマの許可なしに複数の司教を聖別する彼の意向を発表した。
1988年6月30日、ルフェーブル大司教は教会法を破るこの意向を実行にうつし、そのために教会法上の自動破門を引き起こした。次の日、司教団省長官ベルナダン・ガンタン枢機卿はルフェーブルの破門を宣告した。1988年6月2日自発教令において教皇ヨハネ・パウロ2世聖下もまた、離教行為と聖座の警告にもかかわらず行った司教聖別によるルフェーブルの破門を認証した。
悲しむべきことに、公式に教会と和解することなく、ルフェーブルは1991年3月エコンで帰天した。こんにち、聖ピオ十世会は五大陸の二十七国以上に約400人の司祭を擁する。ルフェーブル大司教の離教運動の信奉者の数は100万人をくだらないと見られる。

どれだけ聖ピオ十世会をひいき目に見ても、非常に不利に働く材料の一つがこのプロトコルの存在だろう。どのような立場の組織であれ、その組織の長が自ら合意して署名したことをすぐさま撤回してしまうならば、まともな交渉相手と見なされなくても仕方がないからだ。

<参考リンク>
Protocol of Agreement between the Holy See and The Priestly Society of Saint Pius X(聖座と聖ピオ十世会との同意のプロトコル
Decree of Excomunication(ルフェーブル大司教他の破門宣告)
Ecclesia Deiヨハネ・パウロ2世の自発教令)
Letter to His Holiness John Paul II(ルフェーブル大司教からヨハネ・パウロ2世への手紙)
Sermon:On the Occasion of the Episcopal Consecration(ルフェーブル大司教による、司教聖別にともなう説教)

(この項つづく)