「教会の外に救いなし」入門

この教義については既に私見は書いているが、とりあえずおさらいしておこう。
http://d.hatena.ne.jp/kanedaitsuki/20061028
http://d.hatena.ne.jp/kanedaitsuki/20041229/
http://d.hatena.ne.jp/kanedaitsuki/20041210/

この教義に対して二重の無知があるように思われる。一つは教義の意味について。もう一つは第二バチカンにおけるこの教義の取り扱いについて。
巷にはなぜか第二バチカン公会議で「教会の外に救いなし」という教義が否定もしくは廃止されたと主張する方々がいるのだが、これは事実に反する。「教会の外に救いなし」すなわち「救いのためには教会の成員である必要がある」は不可謬の教義(de fide)であるから、第二バチカン公会議においても、第二バチカン公会議後においても、否定されてもいないし廃止されてもいない。変更がありうるとすれば、おのおのの頭の中身(解釈)であって、客観的な教義の中身は変更されていないし、変更されえない。
第二バチカン公会議公文書Lumen Gentium(「教会憲章」)から。

聖なる教会会議は、まず第一にカトリック信者に関心をむける。聖書と伝承に基づいて、この旅する教会が救いのために必要であると教える。事実、キリストだけが仲介者であり救いの道であって、そのキリストは自分のからだ、すなわち教会の中で、われわれにとって現存するからである。しかもキリストは、信仰と洗礼の必要性を明白なことばによって教え、人々がちょうど戸口を通してのように、洗礼を通してその中にはいる教会の必要性をも同時に確認した。したがって、カトリック教会が神によってイエズス・キリストを通して必要不可欠なものとして建てられたことを知っていて、しかもなお教会にはいること、あるいは教会の中に終わりまでとどまることを拒否すれば、このような人々は救われないであろう

Lumen Gentium 14

現行のCCC(カトリック教会のカテキズム)は「教会の外に救いなし」という見出しの下、846においてLG14を引いている。

「教会の外に救いなし」
教会教父たちによってしばしば繰り返されたこの断定的主張をいかに理解すべきか。積極的な形で再定式化するならば、これは「すべての救いは頭であるキリストから、その身体である教会を通して生ずる」ということを意味する。

(以下、上記LG14「聖書と伝承」から終わりまで引用)

CCC 846

いかに解釈すべきかについては述べているが、「教会の外に救いなし」という教義が否定されてるわけでも、廃止されてるわけでもないことはすぐ理解できよう。
さて、Lumen Gentiumはつづいてカトリック教会を中心とした救いの階梯について述べており、いわゆる教会の外における救いの可能性について触れている。

神はすべての人に生命と息といっさいのものを与え、また救い主はすべての人が救われることを望むのであるから、影と像のうちに未知の神を探し求めている他の人々からも、神はけっして遠くはない。事実、本人のがわに落度がないままに、キリストの福音ならびにその教会を知らないが、誠実な心をもって神を探し求め、また良心の命令を通して認められる神の意志を、恩恵の働きのもとに、行動によって実践しようと努めている人々は、永遠の救いに達することができる

Lumen Gentium 16

勘違いされてる方が多いと思われるが、この事実上教会に属さない者の救いの可能性は、第二バチカン公会議においてはじめて表明された新しい考え方なのではない。実際、この箇所では1949年(もちろん第二バチカン公会議以前)起草の「ボストンの大司教にあてた書簡」(Dz3869-72)へ参照づけられている。ディンツィンガー資料集解説によれば、この書簡は「「教会の外に救いは絶対にない」という格言を、カトリック教会に入りたいという明示的願望を持つ洗礼志願者を除いて、すべての非カトリック者は永遠の救いから除外されているという」意味に解釈する厳格主義に反対している。しかし、「教会の外に救いなし」という教義そのものに反対しているわけではない。

教会が常に教え続けてきたことの中に、「教会の外に救いは絶対にない」という不可謬の格言が含まれている。しかし、この教義は、教会自身が解釈している意味に解釈されるべきである。

Dz3866

「教会の外に救いなし」は不可謬とされていることに注意せよ。この書簡は教義そのものに反対しているのではない。

救い主は、すべての人が教会に入ることを命じただけではなく、教会なしには、誰ひとりとして天の栄光の国に入ることができない救いの手段として教会を設立したのである。

Dz2868

書簡はここにおいて「教会の外に救いなし」という教義を適切に要約たうえで、一転して事実上教会の外にいる者の救いの可能性について言及している。

神は無限の慈愛をもって、人々の救いの助けとして、神が制定したことだけを究極目的に達するために絶対必要なものとせず、ある特定の事情においては、願望だけで救いに達することができるようにはからったのである。

Dz2869

「特定の事情」とは何かといえば「不可抗的無知」(LG16においては「本人に落度がない」)である。

永遠の救いを得るためには、実際に教会の一員として教会に合体することが常に要求されるのではなく、少なくとも願望によって教会に所属することが要求される。この願望は、洗礼志願者のように、常に明示的であることが要求されるのではなく、不可抗的無知の場合のように、暗に含まれた願望を神は認める。なぜなら、神の意志に自分の意志を合わせようと努める人間の善意の中には、永遠の救いを得たいという願望がそれとなく含まれているからである。

Dz3870

これは「教会」という概念の拡張とも見なせようが、書簡はピウス12世による回勅Mystici corporis(1943年)を挙げて、事実上の教会の成員と願望による成員をはっきり区別しており、特に後者(願望による成員)は「永遠の救いについて不確実な状態にある」としている。
したがって、ここで言われていることは、「事実上教会外にいる者もすべて救われる」とか「教会なしでも救われる」とかいうことを意味しない。単に、教会の成員を厳格に解して「厳密な意味において事実教会に所属しない者は絶対に救われない」とする解釈を退けているだけである。

教皇(引用者註・ピウス12世)は、このような言葉をもって、暗に含まれた願望だけによって教会に属している者すべてを永遠の救いから締出す者を非難している。教皇はまた、人は、どの宗教によっても同じように救われるというまちがった説を支持する人々をも非難している

Dz3872

手短にまとめる。
「教会の外に救いなし」は不可謬の教義であるが、事実上教会に属さない者の救いの可能性を絶対的に排斥しているわけではない(その意味では「教会の外にも救いはある」のだ)。しかし、だからといって、どのような宗教でも救われるというような「宗教無差別主義」を肯定してはいない。第二バチカン公会議も、この伝統的教義をそのような意味において再確認し継承している。