処女懐胎―岩下壮一『カトリックの信仰』より

自然科学の実証を楯にして処女懐胎を否定する人は、同じ自然科学の結論として、人類がある時期に地上に出現したことをも認めねばならぬ。またさらに溯って、地球の無生物時代をも肯定せねばならない。しからば最初の生命の出現、しかして少なくともその劣等なる生命より高等なる人間へまでの進化を許さねばならぬ。それは処女懐胎以上の奇蹟ではないか。
現代の科学はまた、単性生殖(Parthenogenesis)の事実を認めることをも忘れてはならない。処女懐胎ということは、決してそれ自身に矛盾を含む事柄ではない。日常経験には背いても、科学的には無条件に不可能だとは言われない。いわんや、哲学的偏見によって先天的に否定するをや。これ科学も哲学も、それ自身に肯定も否定もできぬ事柄に属する。たやすく信仰できぬことであると同時に、無下に却くべきことでもないのである。ただ信憑するに足る権威のみが、かかる事柄を吾人の信仰にまで提供することが出来る。カトリック教会はその天賦の教権により、終始これをもって神の啓示の最も重要なる一部分として肯定し、この信仰により過去二十世紀間を通じて、幾億万の霊が慰められ救われた。

『カトリックの信仰』講談社学術文庫、1994年、pp296-297

信仰者にすらよくある欺瞞は、聖書に記されたことが事実かどうかは別にして、そこに書かれている、いわば「背後の意味」を尊重するというような態度である。事実であろうがあるまいが信じるというのは、一種の二重真理説であり、歴史に対する神の介入を否定することになる。処女懐胎や復活のようなファンダメンタルな信仰対象は、ひとをして信じるか信じないかの瀬戸際に立たせるために、まさに「事実」でなくては意味がない。つまりこの場合、信じるとは、事実として認めるということと同義である。岩下神父が説くように、処女懐胎はそれ自体として矛盾しているわけでも絶対的不可能事でもない。神に不可能事はないのだから、通常の自然法則から逸脱した事柄(奇蹟)は、特別な「神の意志」と解するよりないのだ。