クリスマス・イブ・イブ
聖職者が処女懐胎を否定するのはもはや珍しいことではない、とはいえ。
http://d.hatena.ne.jp/antonian/20061218/1166453780
聖書の証言にも初期教父の一致した見解にも反する説を軽々と信じるのも、じゅうぶん非理性的なのだ、ということに気づかないのだろうか。
そこでマリアはみ使いに、「どうしてそのようなことがありえましょうか、わたくしは男の人を知りませんのに」と言った。
ルカ1:34
処女懐胎への(理性としては当然の)疑問は当の聖母の疑問でもあった。しかし、否定ではない。否定するためには(肯定するためにと同様)理性は理性を超えていくしかない。それは理性の越権となろう。
New American Bibleの註を引く。
マリアの疑問形での応答は、性的関係の否定を意味する。ルカはそれによってこの子供の懐胎における聖霊の役割についての天使のお告げへと話を続けている。ルカによれば、イエスの処女懐胎は聖霊、すなわち神の力を通して生じる。それゆえに、イエスは神と独特な関係を有することになる。つまり彼は「神の子」なのだ。
単なる事実として考えれば、処女懐胎は一つの可能性である。しかし、イエスの受難と復活の信仰と聖書の記述に最も整合的な可能性である。それゆえそう信じることが即、理性に反するということにはならない。