猫ファシスト上等!

某作家が可愛い子猫ちゃんを虐殺しているという話題について、あんとに庵さんのブログhttp://d.hatena.ne.jp/antonian/20060823/1156341400に「売名行為でねえの?」とコメントしたところ、たいへんなお叱りを受けたので、少し書いておく。

http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2349351/detail

騒ぎになっているのは「こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている」という文章ではじまる「子猫殺し」と題されたエッセイ。
タヒチに住んでいる坂東さんは、家の隣の崖の下の空き地に、子猫が生れ落ちるやいなや放り投げているという。

「社会に対する責任として子殺しを選択した」

「子猫殺し」が掲載された2006年8月18日付け日経新聞。ネット上は糾弾の声で溢れている
内容は以下のとおりだ。

猫に言葉が話せるなら、避妊手術など望むはずがないし、避妊手術を施すのが飼い主の責任だといっても、それも飼い主の都合。「子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずに済む」。そもそも、「愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。獣にとっての『生』とは、人間の干渉なく、自然のなかで生きることだ」。人間は、避妊手術をする権利もないし、子猫を殺す権利もないが、「飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない」。

わたくし的にはわざわざ「こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている」と言い訳しているところが作家的にへたれだと思うが、それはともかく少なくともこのひとは自分の行為が「偽悪」だということは自覚している。しかもそのことに快楽を覚えているだろうことも推測できる。だから私は「売名行為」では、と疑問を呈したのだ。
「偽悪」行為の正当化の部分だが、それも支離滅裂である。猫を飼うことを「人のわがまま」としたうえで、ならば「飼わない」という選択をすることもできるはずなのにそうするでもなく、「飼い主としては、自分のより納得できる道を選択する」すなわち、飼い猫(およびその子ども)をどうするかは飼い主の自由なのだと開き直っている。まったくわけがわからない。
生かす手立て(自分で飼うなり引き取ってもらうなり)を探したにもかかわらず見つからなかったのでやむなく殺した、というならばまだ分かるが、薬で安楽死させ手厚く葬るでもなく、崖からゴミのようにポイ捨てである。かりに麗々しく筋の通った理屈であったとしても、その行為がすべてを台無しにしている。
この作家の本をすべて焼き捨てると宣言している元ファンがおられるようだが、そりゃそうしたくもなるだろう。またそうしたとしてもそれは個人の自由だ。上からの圧力でないのならば、このエッセイの掲載新聞や著書に対する「不買運動」も当然自由である。公共空間で言葉を発するならば、これくらいの反応に対する覚悟は必要だろう。なにより反響・影響の大きいメディアでのこうした発言は、快楽殺猫のような模倣犯を生み出す可能性も高い。その意味でもこの作家は非常に無責任である。
本を燃やしても灰になるだけだが、猫を投げ捨てれば・・。猫ファシスト上等!