ヴェイユの言葉

在ったことをなかったことにするのは、神にもできない。創造が放棄であることを示す、これにまさる証左があろうか。
神にとって時間にまさる放棄があろうか。
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いまこの瞬間も、神は創造の意志によってわたしを存在のなかに維持しつづける。わたしが存在を放棄できるように。
わたしがついには神を愛することに同意するのを、神は忍耐づよく待っている。
直立不動で、黙したまま、一片のパンを恵んでくれそうな人のまえにたたずむ物乞いのように。時間とはこの待機である。
時間とは、わたしたちの愛を乞い求める神の待機である。
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芸術とは待機である。霊感とは待望である。
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謙遜とは神の待機にあずかることだ。完全な魂は、神自身の沈黙、不動性、謙遜に匹敵する沈黙、不動性、謙遜をもって善を待ちのぞむ。十字架に釘づけにされたキリストは「父」の完全な似像(イマージュ)である。
聖人といえども、過去を白紙にすることも、一日で十年老いることも、十年で一日だけ老いることも、神からゆるされなかった。いかなる奇蹟も時間には逆らえない。山をも移す信仰も時間には無力である。
神はわたしたちを時間のなかに投げ出した。

してみると時間とは永遠の一様相なのではなく、絶対他者である神とのある関係を意味する。時間の「なか」とは誤解を招く言い方だろう。たしかにひとは時間を超越することはできない。だがむしろ、時間とはある仕方でつねにすでに超越なのであり、脱−存在なのである。