神皇正統記にかえれ!

社会学橋爪大三郎は『皇室の危機』(新人物往来社)のインタビュー「日本人にとって「天皇」とは何か」において、以下のように述べている。

男系の継承でなければいけないという規定は明治になって皇室典範ができてからのことです。旧皇室典範には「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系之ヲ継承ス」」と書いてあるけれども、皇室典範は近代がつくりだしたものにすぎません。
それは北畠親房の『神皇正統記』を読んでみるとわかります。
(中略)
皇統の継承は、伝統的な解釈によれば男系でもなく女系でもなく「三種の神器」によって証明される。鏡・剣。勾玉の三種の神器の正統なる継承者が皇統を継ぐ。これこそが日本の伝統である、と。
≪わが国の神霊として皇統一種のみが正しくあられることは、まことにこれらの勅に明かである。三種の神器がこの世に伝わることは日月星が天にあるのと同じである。(中略)この三徳をあわせて受けないでは天下を治めることはまことに難しいにちがいない≫(松村武夫訳)
(中略)
神皇正統記』には「男系」「女系」などということは強調されません。はっきりしたかたちでは出てこない。皇室典範の考え方とは違うわけです。
(中略)
三種の神器に拠る継承は皇室典範の規定には合わないけれども、わが国の伝統には合っているのです。ということは、愛子さま三種の神器を継承し、そのお子さまが三種の神器を継承すれば何も問題はない。旧皇室典範に戻るのではなく、『神皇正統記』に戻ればいいのです。

「日本人にとって「天皇」とは何か」『皇室の危機』、新人物往来社、2005年、pp69-70

これを流し読みしたときにまず疑問に思ったのは、『神皇正統記』が「万世一系」(男系継承)を否定しているという主張。『神皇正統記』は通読したことはないものの、冒頭の「大日本者(は)神國也。天祖(あまつみおや)はじめて基(もとゐ)をひらき、日神ながく統を傳へ給ふ。我國のみ此事あり。異朝にはそのたぐひなし。此故に神國といふなり」という文章は記憶していたので、変だなと思ったのだ。この文章、普通に読めば、日本には易姓革命がなかった、すなわち神話時代から続く男系継承による君主の一統を維持しているから「神國」なのだと言っているとしか読めない。
なるほど『神皇正統記』は「男系」だの「女系」だの言ってないかも知れないし、「万世一系」など言ってないかも知れない。しかし、それだからといって「万世一系」という言葉が名指す考えを否定しているのだ、ということにはぜんぜんならない。事実はむしろ逆なのではないか。

我朝の初は天神の種をうけて世界を建立するすがたは、天竺の説に似たる方にもあるにや。されど是は天祖より以来(このかた)継体たがはずして、たヾ一種ましますこと天竺にも其類なし。彼國の初の民主[王]も衆のためにえらびたてられしより相続せり。又世くだりては、その種姓もおほくほろばされて、勢力あれば、下劣の種も国主となり、あまさへ五天竺を統領するやからもありき。
震旦ことさらみだりがはしき國なり。昔世すなほに道ただしかりし時も、賢をえらびてさづくることあとありしにより、一種をさだむる事なし。乱世になるまヽに、力をもちて國をあらそふ。かヽれば民間より出でて位に居たるもあり。戎狄より起て國を奪へるも有。或は累世の臣[と]して其君をしのぎ、つゐに譲をえたるもあり。伏犠氏の後、天子の氏姓をかへたる事三十六。乱のはなはだしさいふにたらざる者哉。唯我國のみ天地ひらけし初より今の世の今日に至るまで、日嗣をうけ給ことよこしまならず

北畠親房神皇正統記』、岩波文庫、1975年、pp23-24

犠氏の後、天子の氏姓をかへたる事三十六。乱のはなはだしさいふにたらざる者哉」
かように「易姓革命」を忌み嫌っている北畠が、「万世一系」を否定するなどとんだ矛盾にあらざるか? 橋爪の「皇統の継承は、伝統的な解釈によれば男系でもなく女系でもなく「三種の神器」によって証明される」というのは、ただの珍説である。
橋爪がその珍説の証拠として挙げている文章は、その前提を切り離して引かれているので、直前の文章とともに引用してみる。

大物主の神事代主の神、相共に八十萬の神をひきゐて、天にまうづ。太神ことにほめ給き。「宜八十萬の神を領じて皇孫をまぼりまつれ。」とて、先かへしくだし給けり。その後、天照太神高皇産霊尊相計(あひはからひ)て皇孫をくだし給。八百萬の神、勅を承て御供につかふまつる。(中略)
又三種の神寶(かむたから)をさづけまします。先あらかじめ、皇孫に勅(みことのり)して曰、「葦原千五百秋之瑞穂國是吾子孫可主之地也。宜爾皇孫就而治焉。[行]給矣。寶祚之隆當與天壌無窮者矣」(引用者註:いわゆる天壌無窮の神勅)又太神御手に寶鏡をもち給、皇孫にさずけ(中略)、八坂瓊の曲玉・天の藂雲の剣をくはえて三種とす。又「此鏡の如くに分明となるをもて、天下に照臨給へ。八坂瓊のひらがれるが如く曲妙をもて天下をしろしめせ。神剣をひきさげては不順(まつろはざる)るものをたいらげ給」[と]勅まし/\けるとぞ。此國の神霊として、皇統一種たヾしくまします事、まことにこれらの勅に見えたり。三種の神器世に傳こと、日月星の天にあるにおなじ。鏡は日の体なり。玉は月の精なり。剣は星の気なり。ふかき習あるべきにや。
(中略)
鏡は一物をたくはへず。私の心をなくして、萬象をてらすに是非善悪のすがたあらはれずといふことなし。そのすがたにしたがひて感応するを徳とす。これ正直の本源なり。玉は柔和善順を徳とす。慈悲の本源也。剣は剛利決断を徳とす。智恵の本源也。此三徳を翕(あはせ)受ずしては、天下のおさまらんことまことにかたかるべし。
同上、pp36-38

君主の身につけるべき三つの徳性をあらわす三種の神器は日嗣の日本統治の正統性の象徴であるには違いないのだが、この文章において、皇位につくものがそもそも正統な継承者(天孫から続く男系の血統にあるもの)であることはあらかじめ前提されている。
橋爪の
「鏡・剣・勾玉の三種の神器の正統なる継承者が皇統を継ぐ」
という文章は、転倒している。ただしくは、
「皇統の正統なる継承者が鏡・剣・勾玉の三種の神器を継ぐ」

である。『神皇正統記』のこの箇所を実際に読んで橋爪のごときに解釈することひとは稀なのではあるまいか。もっとも橋爪の引用の仕方のように、「これらの勅に明か」としながら、その勅(「天壌無窮の神勅」を含む)を引用からはずせば、誤解する可能性は高くなるが。
そもそもただ単に三種の神器の所有をもって正統なる皇位継承だとするならば、たとえば私が三種の神器を強奪したならば、「金田天皇」が生まれるのだろうか。三種の神器の継承は「必要条件」ではあっても「十分条件」ではない。
「此三徳を翕(あはせ)受ずしては、天下のおさまらんことまことにかたかるべし。」
は、三種の神器の所持によって正統な皇位継承となるという意味ではまったくない。これはいわば一種の帝王学を述べているのであって、三種の神器が象徴する三徳(正直・慈悲・智恵)を君主が持たなければ、世の中が乱れますよ、と説いているだけである。つまり統治の正統性については述べているにしても、皇位(継承)そのものについての正統性については何も述べていないのである。実際、橋爪の引用文でも原文でも、それなしには天下をおさめるのが難しいとされているのは「三徳」であって「三種の神器」ではない。『神皇正統記』において、そもそもが神話的起源を持つ三種の神器の継承は、「徳の継承」として理解されている。重要なのは物質としての三種の神器なのではなく、まさしく皇道なのである
三種の神器に拠る継承は皇室典範の規定には合わないけれども、わが国の伝統には合っているのです。(略)旧皇室典範に戻るのではなく、『神皇正統記』に戻ればいいのです。」
たしかに『神皇正統記』の尊皇精神に戻るべきだろう。ただし、ただしく戻るのでなければならない。