三島と天皇 4 「英霊の声」

断続的につづくこのエントリ、自分自身特に結論を持っているわけでもなく、まとまらないまま考えつつ書いている。はっきりいって関心のないひとにはつまんなかろうが、思考の備忘録としてとどめたいので、ご容赦されたい。

「英霊の声」は、降霊術によって呼び出された軍人の霊の口を借りて、(昭和)天皇への呪詛を吐く小説であり、三島のひとつの(昭和)天皇観をあらわす。「などてすめろぎは人間となりたまいし」という効果的なリフレインは有名だろう。
前半では226事件で刑死した将校らが、後半では特攻隊員らが天皇への怨念を語る。本来、両者は性質の違うことであるが、三島は昭和維新の将校と特攻隊員を、天皇に殉じたものとして同列に置いているようだ。実は前者は天皇ゾルレンに、後者はザインに服したものといえるから、似て非なるもののはずなのだが、このあたりにも三島の天皇論のこなれなさが見えるような気がする。
226事件の方は話がややこしいので、それはそれとして別の機会に別の文脈で論じたい。特攻隊の嘆きの方であるが、理屈としてはよくわかる。もっとも高揚し、詩的でもある部分を引く。

われらはもはや神秘を信じない。自ら神風となること、自ら神秘となることは、そういうことだ。人をしてわれらの中に、何ものかを祈念させ、何ものかを信じさせることだ。その具現がわれらの死なのだ。
しかしわれら自身が神秘であり、われら自身が生ける神であるならば、陛下こそ神であらねばならぬ。神の階梯のいと高いところに、神としての陛下が輝いていて下さらなくてはならぬ。そこにわれらの不滅の根源があり、われらの死の栄光の根源があり、われらと歴史とをつなぐ唯一条の糸があるからだ。そして陛下は決して、人の情と涙によって、われらの死を救おうとなさったり、われらの死を妨げようとなさってはならぬ。神のみが、このような非合理な死、青春のこのような壮麗な屠殺によって、われらの生粋の悲劇を成就させてくれるえあろうからだ。そうでなければ、われらの死は、愚かな犠牲にすぎなくなるだろう。われらは戦士ではなく、闘技場の剣士に成り下がるだろう。神の死ではなくて、奴隷の死を死ぬことになるだろう。

「英霊の声」『F104』河出文庫、1981年、p76

ここには、死において現実と理想の一致が成就するという死のロマンティシズムがある。天皇がその一体を保証する。しかし、戦後「人間宣言」において「神」であることを否定したことによって、そのために死を賭した特攻隊員を、天皇は裏切った、というわけだ。ちなみにいえば、226事件で蜂起した将校らについて、天皇ははなから「賊軍」扱いしていたから、このような「裏切り」は成り立たない(彼らの頭の中ではともあれ)。これに対して、大命を受けて出撃した特攻隊員の場合は、そういう解釈はじゅうぶん成り立つと思う。
特攻隊員の霊の主張をもうすこしくだいて言うとこういうことになる。生命を擲つためには、そのために奉仕すべき生命以上の価値がいる。それが天皇であり、天皇こそが絶対的価値(価値)であった。ところが天皇は自ら絶対的価値であることを否定した。そのため、特攻はただの無駄死と化した。
私が思うに、いわゆる通称「人間宣言」は、ファナチックな天皇像を退ける意図はあれど、天皇がただの人間であることを宣しているわけではない(実際、直接そう語っているところはない)、とは思うが、たしかに天皇を「現御神」とすることを「架空なる観念」であると批判している。はっきりいって、ここは余計な部分であり、天皇解釈の自由を妨げるにはなはだしく、天皇と国民の絆は相互の信頼関係にもとづいており、単なる「神話と伝説」とによらず、という部分にとどめておけばよかったと思う。この点で特攻隊員の霊の主張(つまり三島の昭和天皇批判)は、一理ある。
ただ、天皇が人間「でも」あるというのは戦前からも日本人にとっては自明の理であり、天皇が人間でありながら人間を超える価値を有するということは、一貫して変わらぬことで、それはこの「人間宣言」においても決して否定されてはいない。この機微はおそらく三島も見抜いていて、次のような箇所がある。

だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだった。何と云おうか、人間としての義務(つとめ)において、神であらせられるべきだった。この二度だけは、陛下は人間であらせられるその深度のきわみにおいて、正に、神であらせられるべきだった。それを二度とも陛下は逸したもうた。もっとも神であらせられるべき時に、人間にましましたのだ。
一度は兄神たちの蹶起の時。一度はわれらの死のあと、国の敗れたあとの時である。

(太字強調、筆者による)
同上、p87

死を賭す絶対的価値対象である天皇は、それ自体として絶対である必要は実はない。いわばその起居振る舞いが、命を賭けるに足るほどの価値を体現すればこと足りるはずである。「人間宣言」はこの点でたしかに、形式上の問題がある。この宣言は、終戦詔書から一転して、あたかも戦後的価値観を彷彿とさせるような表現に傾斜しているのは否めない。してみれば、ここでもまた三島は、天皇に何かを仮託して「日本の戦後」を批判していることになるのだろうか。いわば天皇が、時代に逆行してむしろ自ら神たることを宣言することによって、その後蔓延する日本的価値を喪失しつつある日本の戦後精神に楔を打ち込んでほしかった、という叫びなのだろうかと。これは変革の原理としての天皇という三島の考えとも相即的である。たしかにそう解釈したいが、すっきりしないわだかまりがまだ私にはある。

『F104』(「英霊の声」所収)
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