靖国問題

最近またこの関連の書籍をつらつら読むに、面白いことがわかった。かつて首相の靖国参拝を公約にしてきた自民党の議員の中に、以下のような主張をする者が少なくないことだ。
1.首相の靖国参拝は純然たる内政問題である。
2.首相の靖国参拝は合憲である。
3.しかし、アジア近隣諸国(実際には中韓)に対する配慮から、首相の靖国参拝は控えた方がよい。
1.2.から3が帰結することはありえない。1.と3.に至っては完全に矛盾するといっていい。一体どんな精神構造をしているのか理解に苦しむ。他国の言動によって内政が左右されることは「内政干渉」を許していることではないのか。
現在の連立内閣においては靖国参拝に消極的な公明党への慮りによりこういう玉虫色決着になることはまだ理解できるが、上記のような見解は中曽根康弘公式参拝中止あたりからすでにあったのだ。自民党勢力が戦後最大であった時期になのだから、よりふつふつと疑念が起きる。
政府の中に敵国のスパイでもいるんじゃねえの、とまでは言わないが。
ところで公私の別を問題化することはマスコミが増幅させてきたことではあるが、その淵源は占領下におけるGHQの「神道指令」にある。神道指令において、公職者による神道儀礼への参加が禁止されていた。もちろんこの指令はあくまで占領下における行政(軍政)措置だから、主権回復後にまで縛られるはずはないのだが、マスコミや公共機関では後生大事にこの命令をこんにちまで遵守しているわけだ。たとえば「大東亜戦争」という呼称の禁止もこれに基づく。マスコミではいまだに「大東亜戦争」という呼称を忌避する傾向があるが、いかにGHQによるマインドコントロールが過酷で根深かったかのひとつの例証であろう。
この点ですでに古典ではあるが、江藤淳の『閉ざされた言語空間』という仕事の意義の深さは他との比較を絶する。その江藤は生前、靖国問題憲法解釈の問題という狭い枠組みから日本の精神的文化的問題として広く扱うべきことを強く訴えていた。一介の文学者に過ぎない江藤の種々の発言はいまなお多くの政治家の見識を超え出ており、この問題を考えるうえで常に立ち返らねばならない亀鑑である。