真理を主張すること

あんとに庵さんのブログ「備忘録」http://d.hatena.ne.jp/antonian/20050422/経由で知った「玉響のコロッセオ」というユリアヌスさんのブログの文章が目を引いた。カトリックの新教皇に選ばれたラッティンガー起草の『ドミヌス・イエズス』を取り上げて、その是非を問うている。特に以下の部分には共感する。少々長くなるが引用する。
http://iulianus.exblog.jp/d2005-04-22

一神教は自らの真理性を主張せざるを得ない。それは当然のことである。大事なことはその相手の立場に耳を傾けることである。それに迎合することではない。たとえ、意見が対立しても、それは立場の違いであることを認識することである。他の宗教に干渉することではない。自分たちはこの教えを信じ,それが真理であると信じている。そしてそれを生きている。このことを互いに認めることである。どちらがすぐれているかを「比較」することではない。各々は自分たちの教えが一番すぐれていると主張すればよい。しかし、他のものと「比べて」一番すぐれているという必要はない。それは対話ではなくなる。対話はあくまでも自分の立場を明確にし、相手の立場を認めることである。
 このように考えるならば、「他宗教との対話」というものはキリスト教の中で排除されるものではない。他者は他者の価値観を生きているということを認めることが大事である。自分の価値観を押し付けるのは、抑圧であり、支配である。
 キリスト教徒は「道であり、真理であり、いのちである」イエスを通して御父へと至るのである。キリスト教徒が仏教の世界観を受け入れて、それでも救われるというのであれば、それは不誠実ということである。それは逆を言えば、仏教徒キリスト教徒の世界観を受け入れても救われると言っているようなものである。それを相手に押し付けるの無礼である。カール・ラーナーの「無名のキリスト者」はまさにそのような考えである。これほどキリスト教徒の傲慢さをあらわしたものはない。キリスト教徒があなたがたは「無名の神道者ですから」といわれたらどうだろうか?カール・ラーナーは無名の神道者だから救われています。ラーナーはこれで満足するのだろうか。そういうことなのだ。そんなことよりも、自分たちはこれを信じていて、これが真理であると信じていると主張する方がより他者に対して誠実である。大事なことはそのことを持って他者を攻撃しないことである。

「ドミヌス・イエズス」をきちんと読んだうえで、それを「絶対的」だの「狂信的」だのとレッテルを貼るやからの神経が、私にはとうてい理解できない。この記事で述べられているごとく、自らの信仰の立場を明確にし、それを真理であると主張することと、他者との対話は両立する。というよりも、自己の思想を明確に語りうるからこそ、他者の信念をも尊重することができるのだ。私は繰り返し、相対主義者こそ、多くの場合非常に抑圧的であり自己中心主義的である、と語ってきた。「ドミヌス・イエズス」は宗教的相対主義批判として有効な文書であり、ある意味、キリスト教界の『知の欺瞞』http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000056786/qid%3D1114173548/249-6981532-5636363なのだ。