『第2バチカン公会議公文書』「教会憲章」より

さて、第2バチカンによって、カトリックの教義は異教徒も救われるものになったなどとパーなことを言うクリスチャンの元ネタは、おそらく次のあたりだろう。

なお、神はすべての人に生命と息といっさいのものを与え(使徒行録17・25〜28参照)、また救い主はすべての人が救われることを望むのであるから(1テモテ2・4参照)、影と像のうちに未知の神を探し求めている他の人々からも、神はけっして遠くはない。事実、本人のがわに落度がないままに、キリストの福音ならびにその教会を知らないが、誠実な心をもって神を探し求め、また良心の命令を通して認めれられる神の意志を、恩恵の働きのもとに、行動によって実践しようと努めている人々は、永遠の救いに達することができる
(「教会憲章」第2章16節『第2バチカン公会議公文書全集』p59)

最後の部分などを読んで、それみろ、万人が救われるんだ!と頭の悪いパー子パー夫は思うことだろう。
しかし、
「永遠の救いに達することができる(可能である、ありうる)
ということばを、前に私の引いた
「教会が救いのために必要である」(「教会憲章」第2章14節)
という強い主張と比べると、非常に弱い主張であることに気づく。しかも何重もの限定条件がふされており(「本人のがわに落ち度がない」「誠実な心をもって」「良心の命令を・・行動によって実践しようと努めている」)、無条件に万人が救われるかのような解釈の余地はまったくない。
さて、上には次のような文章が続く。

また本人のがわに落ち度がないままに、まだ神をはっきりと認めていないが、神の恩恵にささえられて正しい生活をしようと努力している人々にも、神はその摂理に基づいて、救いに必要な助けを拒むことはない。事実、教会は、かれらのもとに見いだされるよいもの、真実なものはすべて福音の準備であって、ついには生命を得るようにとすべての人を照らすかたから与えられたものと考えている。
(同上p59)

どんな文章も、全体の文脈に置き直して整合的に読む必要がある。2章16節は、前に引用した2章14節から日本語訳にして1ページしか離れていない。それゆえ、「教会が救いのために必要である」ということと矛盾するようには解釈しえないのだ。そうであるかぎり、ここは、せいぜいのところ、教会の外の人間も神の救いの計画から見はなされているわけではなく、救われないと決まっているわけではない、という程度にしか読めないのだ。なにしろ「福音の準備」なのだから。そう、救いに必要な教会の門は誰に対しても開かれてはいるイスラーム仏教徒マルキスト無神論者も、改宗することを拒まれてはいない。だから、「教会の外に救いなし」は「教会の外のひとも救われうる」ということと決して矛盾はしない。ただ単に万人救済説的解釈(すべてのひとは結局はみな救われる)ができない、というだけのことだ。
第2バチカン公会議で「教会の外に救いなし」という教義は「廃止」され(笑)、「教会の外の人間もみな救われる」という教義に変わったと主張する方は、ぜひとも明示的にそう述べている箇所を引用してほしいものである。