あたりさわりのない追記

東天さんはあいかわらず、自分の非は認めず、他人の非ばかりをいぢくる態度に終始しているようですなあ。
「天の川」12月2日分記事
http://d.hatena.ne.jp/touten/20041202

いつまでそんなこといってるの?とあるひとたちはいいますが。

死ぬまでやめるつもりはありません。

被害を語り続ける責任がわたしにはある。

原爆被害者と一緒です。

私はこういう態度に対して「被害者意識にこりかたまりすぎ」と批評していますが、馬耳東風のようで。
もちろん、自己の体験を語ることは大切ですが、しかし、「被害者」であるからといって、その発言の正否を問われずに済むと思ったら大間違いだ。被害者であるからこその誇張歪曲はありうるわけで、それを第3者が100%の真実と受け止める義務はまったくない。その被害の経験と直接関係のない話ならなおさらだ。
東天さんは公的な場で言葉を発するという重みがまったくわかってない。やさしく受け止めるひとだけに読んでほしいのならば、ネットに自分の言葉をさらすべきではない。

この発言に対してゲストのmomokaさんが以下のような愛情のこもった苦言を呈している。

# momoka 『≪足止めを食らう。≫
こう表現をすることに、東天さんのそもそもの原因が読めます。これは、自分の受け身を相手の責任にしているのです。かく言うわたしがかつて、いえ、いまだにそう、なので、よくわかります。わたしはそれを指摘されたとき、自分の善意を信じていたので、とても受け入れがたかった。しかし、いろいろ諭されて納得した「自己責任」と言うこととは別に、そう行動したわたしには、そうするしかない、私自身の特性があったことを、知りました。あなたもいろいろ探して読んで、そのときその教会を「離れられなかった」訳がわかると楽になりますよ。その日が来ることを祈ります。ゆっくりいきましょう。
原爆被害者とは全然違います。』

まったくその通り! 自分の責任も考えろよ、てこと。本人に何の責任もない原爆被害者とはまったく違う。ところが、東天さんはつぎのようなとぼけたことを平然と書いている。

原爆の被害を語り続ける人のつらさがわたしを励ましてくれるんです。ひとは使命に生きるべしと。
「足止めをくらう」からは、子育てと仕事と家事に明け暮れてキリスト教を学ぶ時間もなかったわたしに対して「わたしに合った適切な教会を紹介しなかった自集団中心主義の教会の問題」に焦点をあてていただきたい。

このひと、一から十まで自分中心にしか物事を見ていない。論理的であるかどうか以前に、社会に生きる大人として、筋の通らないことをしつづけるのは、いかがなものかと思う。別にクリスチャンであろうがなかろうが、ここまで不誠実なひとが、よくも他人を批判できたものだと思う。
東天さんは他人を批判する資格も、ひとに説教する資格もない。ともかく、はやくだんぴさんへの非礼に対して、頭を下げてあやまっていただきたい。