Conceptio Immaculata 無原罪の御宿り:センチメンタルな旅(5)

第二バチカン公会議でも活躍した神学者スキレベークスは、驚異的なマリア神学の書『救いの協力者聖母マリア』において、聖ベルナールや聖アクィナスによる無原罪の御宿りの拒否の、積極的な側面を指摘している。

聖ベルナルドや聖トマスなどの神学者は、マリアの無原罪の状態での誕生を否定することによって、絶大な恩恵的、建設的役割を果たした。彼らには原罪よりの免除という考えがなかったが、マリアが贖われた人間であるというキリスト者の基本的見地を完全に保った。ドン・スコトスが、マリアの無原罪に対する偉大なる信仰を、神学的に発言することのできたのは、マリアが、実際にアダムの贖われた子供であることが、最終的に認められたときであった。それはまた、無原罪の教義は、マリアを贖いの正常のプランから、「キリスト者と関係のない」楽園の子供として、この救いの枠からはずすべきではないとされたときであった。

スキレベークス『救いの協力者聖母マリア』p92

歴史的過程の中で反対の声(それは往々にして当時の大神学者によるものだった)があったことをもって、ある教義の決定を独断的と宣することは、かなり短絡的な、こう言ってよければ稚拙な意見と言わざるをえない。無原罪懐胎の教義はようやく19世紀にEx Chathedraとして宣言されたわけだが、否定的な論者にかぎって、神学的に未決着の問題を一方的に裁断したかのように見る。彼らは非常に簡単に賛成/反対の二分法でくくってしまうが、教義史をたどればそれなりの理論的発展の上に成り立っていることが分かるはずだ。
繰り返しになるが、マリアに何らかの特典を付与することに関してはほとんど反対はなかった。この世の生活において、マリアが昇天に至るまで自罪や情欲から免れていたことについても一致があった。無原罪懐胎の教義を「基礎を欠いた作り物」とまで罵倒した聖ベルナールは、その一方深い聖母信心の持ち主であったことはよく知られている(しかも、いわゆる共同贖罪者の教義については積極的な推進者だった!)。神学論争を離れた立場でいえば、この教義についてベルナールは(他の多くの正統信仰保持者同様)、ローマの決定には従うと明言してもいる。アクィナスについてをや。

スコトゥスの弁証を検討した時にはっきりしたのは、無原罪懐胎の教義は、原罪ないし贖罪の思想の否定ではなく、むしろその「完成」と言えることだった。

聖トマスの無原罪の受胎の否定を、無原罪に関する教会的思考の教義的、歴史的伝統の進歩の枠組みの中で考えるとき、彼の否定は、無原罪の第一義的、基本的観点、すなわちマリアは真に贖われたということを強調したかったからであると見ることができる。エアドメール、エンゲルベルト、ブルデムハイムのコンラード、マルのウイリアム、その他の人々の伝統に従えば、スコトスが強調した点は、マリアは贖われたが、特別な「免除によって」原罪がなかったということである。なぜならば、マリアにおいて、原罪がないことの真の意義は、sublimiore modo redemptaすなわち崇高な方法で贖われた、しかし例外的、独自なものとして、という次元から出発しなければならないからである。

同上、pp92-93

結果だけを見た場合「無原罪」には積極的な面がなさそうに思える。ニューマンが言うように、むしろ万人が「原罪」とともに生まれることの方が謎だからだ。しかし、「贖罪」の観点から見られた場合には、完全なる贖罪としての「無原罪」は、「原罪」という謎に光を与えるだろう(「原罪と贖罪は、同じ神秘の二つの面である」スキベレークス、同上、p83)。「無原罪」とは、ありえたかも知れない「原罪」の免除である(「先−贖罪」)。ということは逆に、「原罪」とは、ありえたかも知れない「無原罪」の喪失である
どういうことだろうか。私たちは可能的経験の地平においては、無原罪であったかも知れない、ということだ。人類の始祖としてアダムが成した罪は、私たちがしたかも知れない罪であった。原罪をどのように考えるにしても、神の恩恵を受け且つそれを喪失したアダムが人類の一員であり代表であることが、私たちが原罪とともに生まれることの条件の一つとなっている。まったく同様に、神の全き恩恵を受けた人類の一員であり代表である無原罪のマリアは、ありえたかも知れない私たちの姿なのである
このように理解すれば、少なくとも原罪の教義の悲観的宿命論的理解は粉砕される。原罪は人間にとって、他の可能性のない、必然的にそうあらざるをえない本質なのではない。原罪とは贖罪の光に照らされた私たちの影に過ぎない。マリアはまさに、光を遮るものがないまでに汚れなき存在なのである。

最後に「無原罪の御宿り」の教義の積極的な側面について、漠然とした汎神論的世界に生きてきた男の告白を紹介したい。世界を旅してきたというその男は「私は信ずる事さえできれば、カトリックになる。なぜだか知っていますか? 汚れなきマリアの信条ゆえに!」とある司祭に内心を打ちあける。

「万一教会のドグマが真理を伝えるとしたら、この信条ゆえに人類のうちに嘗て少なくとも一度はキリストのごとく人間であって同時に神だというのではなく、単に人間であってしかも罪の汚れに決してふれなかった一つの霊があった、また現在でもあるという事を確かに知る事ができる。私はあなたにこう断言しても差支えあるまいと思う。私はかなり広く世の中を見て、人類の罪悪の汚れた流れを学び知ったと。我等の必要とするのは、この罪悪の濁流の一滴だにも嘗てふれず、汚されなかった一つの霊である。少なくともこの一つの霊――汚れざる清浄と神聖さにおける人間の霊の理想として、我等の仰ぎ見ることのできる罪なく汚れなき霊――を我等はほしい。我等が再び人間を信頼し得るために、あなた方カトリックが幸いに信じる事のできる汚れなき聖母を我々は必要とするのである!」

岩下壮一『カトリックの信仰』、pp358-359

(この項了)
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