必要なのは英語教育ではなく「国民」教育

 小学校段階の英語教育の是非を検討している中教審外国語専門部会は27日、事実上、小学校での英語必修化を求める内容の提言をまとめた。親部会の教育課程部会に報告され、審議が続くが、必修化実現の可能性が強いとみられる。  高学年では週1時間程度、共通した教育内容の設定を検討するよう提言。教科書が必要な正式の「教科化」は当面しない。低学年では道徳などと同じ「特別活動」、中学年では「総合的な学習の時間」での教育で充実させる方針。 文部科学省は2006年度にも改訂を予定する小学校用学習指導要領に方針を盛り込む見通しだ。

私は初等段階での英語教育に必ずしも反対ではないが、かりにするならば成績を問われる「教科」にすべきで、この答申の方向性は中途半端だと思う。
英語教育について、よく「何年間も勉強してるのに、まともに話すこともできない」ことが批判されている。しかし、それはむしろ慶賀すべきことがらである。日本語が公共の言語として機能しており、日本語のみによって生活することに何の支障もないからだ。かつて植民地化を経験した国では、公共語が元宗主国であることが多い。日本は実際的にも文化的にも植民地化されなかった。その歴史は肯定されるべきだ。
英語学習は基本的な教養としてあって良い。しかし、「すべての国民が」英語を流暢に話せる必要はまったくない。一定の割合で英語を使った自己主張ができる日本人(特に外交の分野)がいれば十分なのである。英語ができるだけではいけない。日本の立場でものをしゃべることができなければ意味がない。英語をうまく話せる日本人ならごまんといるが、いま現在欠けているのはむしろ後者のようなタイプの日本人だ。この点、戦前の方がはるかに勝る。




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